2011年9月24日土曜日

ご挨拶

  『帰って来たひつじ』は、20116月に3ヶ月ほど中断いたしましたが、装いも新たに、8月『復活したひつじ』として甦りました。

   今まで以上に『復活したひつじ』は、祝福を持って読者の皆様を大歓迎いたします。これからも『復活したひつじ』を、末永く宜しくお願いします。

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2011年8月21日日曜日

暴 力




星野監督が中日ドラゴンズの監督をしていた時分に、審判の判定に対して猛烈に抗議したことがあった。結局、聞き入れてもらえなかったために、星野監督は激怒のあまり審判に暴行を働いた。


その審判は肋骨を骨折して入院する羽目となったが、ことの一部始終を見ていた観戦者の二人が、提訴したことから問題は更に大きくなった。 


当時の星野監督は「自分は今までに人に頭を下げたことのない男だ」と、強気の発言を呈していたが、紛争に至らないように球団が早急に根回しを計ったために、暴行事件はいつの間にか闇の中へ葬られてしまった。


多分、球団側は、内密に多額の示談金を審判に払ったものと思われる。


もし、同じようなことが大リーグで起こったならば、その監督は球界から永久追放されるだろう。裁判に至っては、禁固刑の評決が下される可能性が十分にある。そもそも審判に向かって手をあげるだけでも大騒ぎとなる大リーグで、肋骨を骨折させるなどとは尋常ではない。


野茂やイチローそして松井の活躍は、日本の野球がメジャーでも十分通用することを証明してくれた。だが、暴力に対してあまりにも寛容すぎる日本球界の体質は、世界の目には野蛮な行為を黙認する組織であると映るであろう。


選手同士の殴り合いはメジャーでも見られるが、情けないことに日本のプロ野球界では、相手が体の大きい腕っ節の強そうな外人選手であれば、日本人選手の大半は逃げ出してしまう。


自分よりも弱い者には暴力を振るい、強い者からは逃げ出してしまう。これでは野球を観戦している青少年に、健全なイメージが伝わらない。


スポーツマンは紳士であれ!





テナーサックス




スタン・ゲッツのテナーサックスを聴きながら、この稿を書いている。スタン・ゲッツのプレイは、調子が悪い時に吹けばハチャメチャだけど、調子が良好の時に吹くサックスが、天才的な才能を発揮する。


スタン・ゲッツと言えば、アストラット・ジルベルトと組んでの、ボサノバが有名だ。スタン・ゲッツのテナーサックスは、いつ聴いてもメローなサウンドである。果物に例えると食べごろだ。


ジョー・ヘンダーソン(日本ではジョーヘンの愛称で親しまれている)とスタン・ゲッツは気がよく合った。ともにテナーサックスを吹く二人は、とても気難しい。


教えてくれたのは、ジョー・ヘンダーソンのガールフレンド、マリコさん。僕が若い頃によく聴いていたテナー・マンは、この二人以外にレスター・ヤング、ズート・シムス、ハンク・モブレー、セルダン・パウエル、ジョニー・グリフィンetc。


僕もテナーサックスを吹く。酔いしれてないと名演は期待できない。





My Little One / 愛しいわが子へ 新井雅之




愛する妻がいてJoyがいる


三人だけの小さな世界


幸福のさざなみが



ぼくの胸底に打ち寄せる


 


食卓を囲んで


目を閉じて


静かに三人で祈ると


こころが一つになる


感謝の思いが溢れてくる


 


ぼくは弱い


キリストがぼくを強くしてくださる


ぼくが喜びにひたっていたら


江美子もJoyもすこぶる元気だ


互に愛しあうことを忘れない


 


神様はわたしたちを選ばれた


逆境には知恵と力を


順境には謙遜を


大いなる確信は希望


何事でもやってのける勇気


 


愛しいJoyよ


父がいる


母がいる


イエスの愛に包まれて


さあ 恐れずに


黄金の人生を歩め





肝が美味しいことを、肝に銘じた




今から二十四五年前、初めて鮨屋でカワハギの肝のにぎりを食べた時、その味に度肝を抜かれた。美味しいことを超越していた。


以来、カワハギの薄作りに(カワハギの)肝醤油をつけて食べることを覚えた。アンコウの肝とは比較にならない味だ。


フランスはリヨンのレストランで、トゥルヌド・ステーキの上に、ソテーしたフォアグラとトリュフを乗せて、食べた時の感奮と類似していた。


僕は、肝が美味しいことを、肝に銘じた。





お祈り有り難うございました




皆様、お祈り有り難うございました。心から感謝申し上げます。皆様のお祈りのお陰で、無事退院することができました。主を賛美し褒め称えます。ハレルヤ!


この度の治療は簡単に説明すると、僕の体を被爆させることによって、癌細胞を死滅させることにあります。


病室は放射能が漏れないように、コーティングがされていました。5人のドクターが特別な装備姿で、一錠のカプセルを金属製の分厚い箱に入れて表れました。


ドクターは僕にカプセルを渡す前に、汗が多量に出るのと、喉が渇くと告げました。4時間は水を飲んではいけません。4時間後には水を大量に飲んでください。僕は4時間が勝負だなと悟った。


これで治療は終わった。後は僕の体内から放射能が消えるまで、水を大量に飲むことである。尿によって放出されるのだ。それまでの3日間は隔離される。





悔やまれる




27年来のホームドクターを信頼しきっていたので、僕の間違えでした。体の調子が悪いと感じたら、直ぐに大きな病院へ行って精密検査を行うべきだった。


当時、僕には健康保険が無かった。大きな要因はこれだ。今更ながら悔やまれる。





忘れられない味




35年前に味わった忘れられない料理がある。旧琵琶湖ホテルのダイニング食べた、蒪菜(じゅんさい)入り冷製スープ。和食とフランス料理の見事な融合だ。


何の料理か覚えていないが、ビーフ・スープの煮凍りを、料理の上にあしらった滋味豊かな副食。これも忘れられない味だ。全体の料理の味も、和の心と西欧味付けが見事に綯い交ぜになっている。往時、シェフをしていた方と会ってみたい。


旧琵琶湖ホテルは、西洋建築でありながら瓦屋根にして、天井の高い倭國(わこく)の風情を感じさせてくれる。


僕が独身の時、足繁く通った大阪曽根崎のお好み焼き屋、『ゆかり』も忘れられない味だ。友達と二人で行けば、ミックスお好み焼きと、焼きそばをシェーアして頂いた。


両親を連れて行ったこともある。父母は牡蠣(かき)の入ったお好み焼きが好きだった。当時は冬限定。


 





キャロル・キング




高校一年の秋、ある日、クラスメイトが囁いた。


「サイモンとガーファンクルの、『明日に架ける橋』を聴いていたら、自然と涙がこぼれた」


僕は心の中で思った。「キャロル・キングの『君の友達』方が、哀調を帯びて、慰めと共に不思議な元気を貰える」


あれから40年弱、僕はいまだにキャロル・キングの『You’ve Got a Friend』を聴く。最近よく聴くのは、キャロル・キングと三人の友達で歌うライブ。


サイモンとガーファンクルも良いが、キャロル・キングの方が、もっといい。僕はその様に思う。





鼻の絵




トーマスは、美しい花々の絵を描くのが得意であった。トーマスの絵は、日に日に評判を呼んだ。あっと言う間に、トーマスの評判が全国へと広まった。今や売れっ子の画家である。


トーマスは花の絵を描き続けて、もう30年余りになる。マンネリ化が進み、スランプに陥った。3年間も沈黙が続いた後に、発表された絵画を観て画壇は驚いた。


ハナはハナでも、女性の鼻ばかりを描いて、次々に発表するではないか。世間の声は鼻はだ迷惑。世の中の鼻息を窺う、そして鼻にかける。益々世間に対して鼻を利かしては媚びている。そして、鼻を高くする。最後に後援者の鼻毛を抜く(相手を見くびって、だましたり出し抜いたりすること)。





キング・オブ・ベスト




僕の人生は失敗の連続であった。原因は分かっている。油断、怠慢、努力せず。


50十代半ばでストロークになって、おまけに末期癌。闘病生活が続く毎日だ。一日中家にいるので、時間がたっぷりある。僕は考える。あの失敗がなかたら、更に大きな失敗をしていただろう。


僕が成功していたら、謙遜を装い、傲慢な人間になっていただろう。失敗もベスト、病気もベスト、落選もベスト。


 アメリカへ渡って、イエス様と巡り会えたのだから、これはキング・オブ・ベスト。イエス様にベストの道を導いただく。これほどベストな物はない。


御心のままに導いてください。イエス様。


 


「試練なり病気失敗主の恵み」





堪える




食事制限を始めてから今日で一ヶ月、堪える。


後、二ヶ月。


献立がほぼ毎日同じ、やり切れない。


ドクターの言うことは、聞かないといけない。


だけど、堪える。


堪えるの二乗、いや、三乗かな。





ポントルソン




ノルマンディー地方の


小さな村の


フランスの


石畳の


教会の


夜道の


路線バスの


小さなホテルのロビー


踏み切りと鉄路の


目抜き通りの


土塊の


ムッシューの


館の


霧雨の


奇跡のスィーツの


森閑


至上の純朴


ポントルソンの


 


 


森閑


 





ラスベガス




ラスベガスに行くと、僕はアラジンのバフェイをよく利用する。ベラージオ、パリ、リオ、バリーズ等、バフェイの有名な所はみな制覇した。でも、値段が高いから美味しくて当たり前。


アラジンのバフェイはベラージオの半額、味も劣らない。違うのは種類の多さだけ。アラジンのバフェイでは、僕はサラダ1回、スモークサーモン2回、プライムリブ3回を取りに行く。健康な時分には、僕は大食漢なのである。


常宿はサーカスサーカス。安い、綺麗、子供づれには最適、遊園地付き。家人はラスベガスへは、車で行きたくないという。僕が病気になってから、家人が一人で運転しなければならないからだ。


ラスベガスには30年間の間に、40回ほど行っているだろか。プライベートで行ったのは数回。後は、日本からのお客さんの案内係である。


ラスベガスへ行っても、僕は、ギャンブルは一切やらない。ショーも見飽きた。プールで泳いで、バフェイで食べるだけ。


健康な折には、ラスベガスに到着すると、真っ先にホテルのバーへ直行した。ロングドライブを癒すボッカマティニーをあおった。


 ラスベガスのダウンタウンのホテルには、バフェイが無かったように思う。その代わり格安の定食が食べられる。先ず、アペタイザーにベイシュリンプ。メインはロブスターとステーキ。


今度、ラスベガスに行けるのは、何時の事やら。ラスベガス教会にも一度お礼に伺いたい。力強く歩けたら、すらすらと喋ることが出来たら、僕は一人でラスベガスに行きたい。


最後に、一句「ラスベガスネバダの大地そぞろ寒」


新井雅之


 


 





主のもとへ




術後、眠っている間に、タンと唾液が咽頭に流れ込んできて、明け方に咳き込む。

食事の際に食べ物が、器官に入りかけて咳き込む事がしばしばある。手術前にはそのような症状が出てこなかった。


おまけに食べづらい。飲み込みにくい。涎が出る。まだまだ試練は続く……


「秋の暮飛んで行きたい主のもとへ」


 





眠る男




来る日も来る日も、男は眠り続けている ……


一日24時間の内の、3時間ほど男は起きる。一日の日課は食事をして仕事をするだけだ。だが、仕事をする時間は、少なくとも6時間から10時間もある。


実は、男には奇妙な特技があった。眠っている間に仕事をするのである。男の職業は小説家。眠っている間にストーリーを考える。組み立てる。推敲をする。起きたら、ひたすら書くだけである。


3時間ほどしか起きていられないから、遊びには行けない。原稿料と印税が貯まるばかり。男には趣味があった。B級グルメである。毎日出前を取っては食べる。


男には身の周りをお世話してくれるお手伝いさんいる。洗濯に掃除etc。原稿料は、お手伝いさんの給料とB級グルメでほとんどが消えていく。


ある日、男は消えた。行方不明ではない。死んだのでもない。異次元に移り住んだのだ。男はしまったと思った。男が移り住んだ17次元では、一日が十万時間ある。男はたかが3時間ほどしか起きていられない。


男はひたすら眠り続ける。眠っている間中、小説のストーリーが何本も完成する。3時間では書く時間足りない。男は17次元の主に直訴した。主からは、


「3時間も起きてはならない。死んでもいけない。ただひたすらに眠り続けろ」と言われた。


眠る男は、今日も眠り続ける。945億年も眠り続けている。その間、完成した小説は770億冊。書く時間を奪われた男は、17次元の主からかの呪いが解けるまで、永遠に眠り続けるだけ。


新井雅之


 


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© 2010 Masayuki Arai


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生きる




赤よりもはるかに赤い


燃えるような漆黒の赤いバラ


ブラックよりもはるかに黒い


戦慄する緋のコーヒー


 


俺は27時64分前に目覚めて


仕事をする


狂ったように


 


大きなカラスが血を吐くように


狂ったように


仕事をする


 


俺は病に蝕まれて片端になっても


黒い血を吐き


狂ったように


狂ったように


紅く 生きる


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切断

昨日、母が乳癌で亡くなった。

後を追うようにして、姉も乳癌で死んだ。

年が明けて、もう一人の姉も乳癌で逝った。


今度は、私の番だ。

海外在住の、妹の夫から電話が掛って来た。

妹は今朝、乳癌で息を引き取ったらしい。


私はいたたまれなくなって、病院へ駆け込んだ。

そして、両乳房を切断してもらった。


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2011年6月22日水曜日

酒と執筆と読書の日々




僕が日本にいた頃、収集癖があった。電車の切符、駅弁の包装紙と容器、時刻表、古銭、メダル、骨董品、ぐい呑み、書籍、パイプ、喫茶店のマッチ、鉄道グッズ、Gパン、レコード。

そのなかで、最も多く収集したのが書籍であった。往時の僕の部屋は二階にあった。あんまり本が大量にあるので、床が抜けると父から苦情がでた。

一階の部屋を書庫として使わせてもらったので、一件落着。殆どの本が文学に関する書籍である。その数8000冊。専門書であるから分厚くて重い。

食事の際と、歩く時以外は本を読み続けた。食事の時も本を読む者がいるが、僕は食事を楽しみたいから、本を読むことを中断する。

僕の特技は速読術、雑誌、新聞も含めて月に400冊あまりの本を読む。今、最盛期の本を読むスピードと比較して、20分の1にスピードが落ちた。

往時は古本屋と、図書館に入り浸りの日々が続いた。僕の当時の職業は、文芸雑誌の編集者。ジャズを聴きながら、酒をあおり執筆したものだ。

古き良き時代であった。





2011年6月20日月曜日

Pizza




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場所は、ロサンジェルスのベバリー・ブルバード。ピザの美味しいレストラン『Terroni』(テローニ)。


僕は、かつてピザは食べなかった。江美子とジョイが好きなものだから、ピザ・ハットによく通った。


どこかに美味しいピザは、ないものだろうかと僕は探し始めた。ピザ好きの朋友が教えてくれたのがテローニ。


土曜日の午後テローニへ、家族3人で赴きました。 


テローニのバーテンダーが口走った。ピザ・ハット、ドミノ・ピザはアメリカンスタイル。ここテローニは本場(イタリア)の味。薄生地のクリスピーピザが美味しい。


写真は生ハムとモッツァレアチーズのピザ。Santo Stefano Pizza 15.95ドル。


Terroni
7605 Beverly Blvd. Los Angeles, CA 90036          
tel. 323-954-0300





2011年6月19日日曜日

父の日




今日は父の日だ。みんなでミルクを飲みましょう。


母の日は、みんなで何をすればよいのですか?


みんなで笑いましょう。母ハハハハ……





2011年6月18日土曜日

コーヒー




アメリカでは訪問客に飲み物をサーブする前に、コーヒーにするか、それともソフトドリンクか、相手の嗜好を確かめてくれるので有り難い。


日本では、相手の好みなどお構いなしに、コーヒーや日本茶が運ばれてくる。僕はコーヒーが飲めないので、コーヒーを勧められると苦痛である。いつまでも飲まないでいると、「冷めないうちにどうぞ」、「さあ、ご遠慮なさらないで」、会話の合間にコーヒーを勧められる。 


以前、相手に悪いと思って、おもいきってコーヒーを流し込んだことがある。すると、てきめんに気分が悪くなって嘔吐してしまった。


コーヒーアレルギーの僕でも、美味しくいただけるコーヒーがビバーリーヒルズにあった。それは、かつてロデオドライブで一世を風靡したフレッド・ヘイマンというブティック内で、顧客を待遇する為にサーブされていたオレンジ・カプチーノである。その風味ときたら、目から鱗が落ちる味わいであった。


コーヒーは酒や煙草と同様に、健康を害う嗜好品であるとみなされているが、コーヒーを多く飲むフィンランド、スウェーデン、ノルウェー、スイスなどの長寿国では、日本と殆んど同じ濃さのコーヒーを、一日に一人当たり三杯飲んでいる計算になる。これは日本人の約3倍にあたる量である。


巷では、様々な生活習慣病にコーヒーが良いとされる研究報告が次々に発表されている。糖尿病、胆石、高血圧、動脈硬化、さらには癌予防にも、コーヒーの効能があるらしい。


晩酌を欠かさない高血圧症の男性28人を対象に、毎日コーヒーを3杯以上飲んでもらった結果、4週間後には上の血圧が10から15下がり、コーヒーを飲むのをやめると、血圧は徐々に元の数値に戻ったというデータもある。


コーヒーがそんなに身体に良いのであれば、きっとダイエットにも効果があるのではないかと思い調べてみると、コーヒーに含まれているカフェインには、脂肪抑制効果があることを世界中の研究者がこぞって証明していた。


それでは、まず、味の薄いコーヒーから飲み始めてみることにするか。いつか、憧れのブルーマウンテンも飲んでみたい。





野ばら




 


野ばら


ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ/小塩 節 訳


 


 


野辺に咲く


あかいばら


朝日のような美しさ


少年は見るなり駈けよって


うっとり眺めておりました


あかい野ばら


野辺に咲くばら


 


「さあ 折るよ


あかい野ばら」


「刺してあげるわ


わたしのことを忘れぬように


ただ折られたりはしませんわ」


あかい野ばら


野辺に咲くばら


 


でも少年は むごくも折ってしまった


あかい野ばらを


ばらはふせいで 刺したけれども


嘆きも叫びもむだでした


やっぱり折られてしまった


あかい野ばら


野辺に咲く ああ あかいばら


 


 


 世界中の人々に愛されて、親しまれてきた『野ばら』は、わが国では近藤朔風の訳詞(♪ 童は見たり 野中のばら・・・ )とシューベルトの作曲で有名である。


二十一歳のゲーテ(少年)は、牧師の娘フリーデリーケ(野ばら)に一目惚れする。貴族の出身で金持の少年は、自分が欲しいものは何でも手に入れなければ気がすまなかった。泣き叫び抵抗する純真無垢な乙女は、少年の一方的な熱情に翻弄されながら、とうとう少年の愛を受け入れてしまったのである。


後にゲーテは、フリーデリーケとの出会いの印象を、自伝『詩と真実』の中で、「片田舎の天空に、たまらなく愛らしい星が立ち昇った」と、述懐している。


詩の鑑賞はこれで終わりであるが、当然、往時の二人の関係には続きがあった。片田舎で会っていた時分のフリーデリーケは、この上なく清純で愛らしかった。けれども、都会の社交界においては、フリーデリーケの姿が、ゲーテの目には不粋に映っていた。


恋多き詩人は、非情にもフリーデリーケを捨ててしまった。心に深く傷を負ったフリーデリーケは、リボン作りで生計を立てながら生涯を独身で貫いた。


しばらくしてゲーテは、今度は婚約者のいるシャルロッテ・ブッフを熱愛し始めた。この片恋の顛末を描いた『若きウェルテルの悩み』は、世界中で大反響を巻き起すことになる。また、晩年のゲーテは、七十代半ばになって十七歳の少女に求婚している。


ゲーテは幾多の恋に明け暮れながらも、生涯にわたってフリーデリーケとの経緯について、良心の呵責を抱いていた。その懺悔の念は『ファウスト』を始め、主要作品の貴重なモティーフとなって表現されている。


 


 


 


 





2011年6月17日金曜日

タワー・オブ・パワー




高校生の時分、僕はブラス・ロックにのめり込んでいた。最もはまったのはシカゴ。実力ではBSTとタワー・オブ・パワーの方が上だが、一番人気があったのは、日本でもアメリカでもシカゴ。


アメリカに移住してからも、シカゴのヒット曲が絶えなかった。シカゴの曲をシィーナ(新ラッパを吹くひつじ、セーブ・マネー参照)と一緒に口ずさんだ。


アダルト・スクールの先生ジェーンとは、タワー・オブ・パワーの曲を一緒に聴きながら、ダンスを踊った。


或る夏の日こと、サンタモニカでジェーンと邂逅(かいこう)した。ジェーンの方から呼びかけてきたのだ。僕はその時、正しくジェーンのことを考えていたから、僕はこの偶然に仰天してしまった。


しばらくジェーンと一緒に過ごした。サンタモニカ・ピアーの前のマクドナルドで、一緒にビック・マックを食べた時、ジェーンのウオークマンから、タワー・オブ・パワーの曲が♪~♪♪はじき出ていた。


 






2011年6月16日木曜日

病気前




僕は病気になる以前は、育メンだった。江美子が夜の仕事なので、ジョイの世話をしなければならかった。


ジョイの首が据わった頃に、机の脇のブランコに乗せて、PCの前に座り連日執筆をしたものである。


ジョイは大人しくしていてくれるので、仕事がはかどった。往時は1ヶ月に15本の連載を抱えていたので、締め切りに追われる日々が続いた。 


それにしても、便利な世の中になったものである。日本でもニューヨークでも、Eメールで原稿が送れる。毎日新聞に連載していた『ジョイの子育て奮闘記』は、好評を博した。


エッセイ、詩、コラム、文芸評論、児童文学まで執筆をした。また、詩の投稿欄、文芸賞の選考委員まで担当していた。助勢となったのはサプリメント。3日間、連続で徹夜しても平気だった。


時には締め切りぎりぎりまで、筆が進まないこともある。自分を追い詰めることによって、一瞬にして書けるこがある。


最近、昔の文学仲間と連絡を取り合っている。そろそろ文芸誌に、執筆しようかなと思っている。





2011年6月14日火曜日

タパス料理




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江美子の従妹の夫トニーが、推奨してくれたレストラン、スペイン料理『La Paella』。タパスとは、スペイン語でおつまみという意味。


先ずは、スペインのシャパンGavaで乾杯。


この日、タパス(アペタイザー)をオーダーした物は、シュリンプのガーリック・ソテー7.5ドル。茹でたイイダコ6.5ドル。ガーリック・スープ6ドル。チキン・コロッケ4.5ドル。タパス料理は平均7ドル。


メインはパエリア21.95ドル(写真)。デザートはフラン(プリン)4.95ドル。


さすがスペイン系アメリカ人、トニーのお奨めのレストランとあって、趣のある味わいに脱帽。


ホームページ La Paella


 





2011年6月13日月曜日

俳句デビュー




 


きょう、(6-11-11)日本語学校で俳句を習った。


ジョイが初めて作った俳句。


 


さくらの木ピンクのドレスひらひらと


花火だよ「たまや~」と言って楽しむよ







2011年6月12日日曜日

毛虫




毛虫


ギィヨーム・アポリネール/堀口大学訳


 


働くことは金持ちをつくる


貧乏な詩人よ、働かう!


毛虫は休なく苦労して


豊麗な蝶(てふ)になる。


 


 


 


堀口大学の訳詩の集大成とも言える『月下の一群』(大正14年刊)の中から、『毛虫』を鑑賞する。


 


僕は陋居の仕事場の壁に、この詩を拡大したコピーを、5年ほど前から貼り付けている。何故ならば、往時のアポリネールの情況と自分自身が、だぶって見えて来たからだ。


 


さて、『毛虫』は僅か四行の短詩であるが、二つの構成に分かれて成り立っている。即ち一行目と二行目が第1部であり、三行目と四行目が第2部となる。


 


第1部は貧困に陥った時の、自問自答である。それは詩を書く努力が、衆生世間に理解されないからである。けれども、生活していく為にはお金が必要なのである。


 


第2部は、詩人の魂はイマジネーションの美であって、決して物欲に溺れるものではないと謳っている。従って『毛虫』は、相克の哲理に煩悶するアポリネールの絶叫であるのだ。


 


巷では、『詩』など創らないで『田』を作れ。「あいつは詩人か、どうせ金がないのだろう。ジャニターの仕事でも世話してやれ」等と言われて来た。浮世では、詩人は肩身が狭いのである。





2011年6月11日土曜日




♪ 雨、雨、降れ、降れ、母さんが、蛇の目でお迎えうれしいな……


「蛇の目って何? 」


一緒に歌った後で、ジョイから問われた。無理もない。僕が子供の時分でさえ、蛇の目は一般的ではなかった。それでも、地方へ赴くと番傘を見掛けることがあった


きょう、6月11日は入梅。当地、南カリフォルニアでは、10月の末頃まで雨は一滴も降らない。日本列島はこれから約1ヶ月間、黒南風(くろはえ)の雨期を迎える。


山陰地方など、年間を通して降雨量の多い地域では、「弁当忘れても、傘忘れるな」と言われる程、雨傘は日常生活に欠かせない。


英国紳士のシンボルは雨傘であるが、カリフォルニアの人々は雨傘には無頓着である。多少の雨が降っても、めったに傘をさして歩いたりはしない。


雨の多い国で育った日本人は、雨が降ってくると条件反射的に、雨に濡れないようにしようとする。井上陽水さんの『傘がない』という曲の歌詞を読むと、急いで知人に会いに行かなければならないというのに、「♪ 問題は今日の雨、傘がない…… 」。よっぽど雨に濡れるのが難儀だと見える。


ジーン・ケリーは傘を投げ出して、土砂降りの雨の中で愉快に歌って踊った。ハリウッド映画『雨に唄えば』は、憂鬱な雨を愉しく表現させる為の手段として用いた。


傘のルーツをひもといてみると、雨傘よりも、日傘の方が最初に考案されていた。古代オリエントが発祥の地で、ローマ時代になってから雨傘が普及した。その後、18世紀の中ごろになると、鋼鉄製のこうもり傘の原型が出来上がった。


ロサンゼルスで生活を続けていると、多少の雨如きでは、傘の世話にはならなくなった。雨期になると、月形半平太張りに「濡れて参ろう」ということになる。しかしながら、傘の必要性を感じる場合も稀にある。


思い立ったが吉日。きょうから、自動車のトランクに折りたたみの傘を忍ばせておこう。本日(6月11日)は『傘の日』なり。


 





2011年6月10日金曜日




あっという間に1日が終わる。1週間が過ぎる。季節が変わる。そして1年が経過している。


年齢をつみ重ねるごとに、時の経つのが速いと感じるのは、人生というものが分かってきたからだと、泰西の或る偉人が語っていた。


分かったという意味は、人生を悟ったということではない。生きていくことに慣れきってしまって、感性がにぶっているだけだ。いや、そのような考え方は適正ではない。今朝、時の流れについて自問自答している自分がいた。


ロサンゼルスの街角で、時計を探すのは容易ではない。レストランへ入っても、ショッピングセンターを歩いていても、時刻を知らせる公共の時計が目に入らない。時折、ビルの塔などに大きな時計が掲げられてあるが、そのほとんどの時計が故障している。たとえ動いていても正確な時刻は期待できない。


超過密ダイヤにもかかわらず、JRの発着時刻は実に正確である。この正確さには、訪日した外国人が舌を巻くらしい。日本の標準時間を刻んでいるのは、セジウム原子時計だ。3000年から30万年の間に、わずか1秒の誤差しか生じない超高性能。1888(明治21)年、世界の標準時間に合わせて、日本標準時が設定された。


元来、人間の本能には、時を予測する能力が備わっている。翌朝6時に起きるつもりで目覚まし時計を合わせて眠ると、目覚ましが鳴る寸前に目を覚ますことがある。摩訶不思議だ。


先日、読書中に、「間もなく正午だな」と感じて書斎の時計に目を向けると、五分前であった。腹時計が時刻を告げてくれたのである。


きょう、6月10日は『時の記念日』。ジャネーの法則によると、50歳の人間の1年は、10歳の少年と比較すると、5分の1の速さに感じると言う。





2011年6月5日日曜日

調子




調子が悪くて、ブログの記事が書けません。


調子が悪いのはPCのこと、修理に出そうかと思っている。従って4、5日は記事が書けません。


僕はいたって体の調子が良い。





全米




アメリカだけが全米と言うのは何故か。中国も全中国、ロシアも全ロシアとは言わない。


リトル東京の日系人博物館で資料を見つけた。


今から90年前、日系人の吉田善兵衛という人が、全米は豊かな国と語ったことに由来する。


本当の様なうその話。





下降




 


 


下降


杉山平一


 


仲好しと、いま別れたらしい


娘さんが笑みを頬にのこしたまま


六階からエレベーターに入ってきた


四階で頬笑んだ口がしまり


三階で頬がかたくなり


二階で目がつめたくなり


一階で、すべては消えた


エレベーターの扉があくと


死んだ顔は


黒い雑踏のなかに入って行った


 


 


現在、杉山平一は『関西詩人協会』の代表を務めている。彼の代表作品といえば、この『下降』と、『写真師』、『生』、『不在』などがそうである。


詩を味わった後で、押し付けがましい解説を読んでしまった故に、掻き立てられていたイマジネーションが興醒めてしまうことがある。


 


伊藤信吉は、娘さん(女の子)が一階についたとき、彼女は「無」になっていた。と解説している。作者は「すべては消えた」と詩の中に綴っている。女の子が「無」になるのと、客観的に詩人の眼が捉えた状況であるところの「すべてが消えた」とでは、本義が全く異なってしまう。


何かメタフィジックなことでも意図しているのかと考えたが、伊藤信吉は女の子の表情の変貌をカメレオン物語であると結んでいる。そして変貌は無意識のうちに行われるので、戦慄するのだ。というのである。


非常に抽象的な釈義だが、ここは別段、難しく考える必要はないと思う。今まで仲好しと遊んでいて、生き生きとしていた女の子の顔が、一階について実在となったのである。そこで終結すれば詩にはならないので、対照的な「死んだ顔」という表現を用いたのである。そうすることによって「黒い雑踏の中に消えていった」最終行が深い広がりを見せている。


 


 





2011年6月4日土曜日

チェリーの味




僕が14歳の頃、大阪警察病院の神経科に入院していた時のこと。同じく患者で3歳年上の女性と、意気投合して行動を共にした。


夜、病院の屋上へ二人で足を運んだ翌朝、婦長さんに注意を促された。夜、男女が二人だけで屋上に赴くと、何か如何わしいことでもやっているのではないかと誤解されかねない。


14歳の僕は、大人って厭らしいことを考えるものだと憤慨した。二人は外出も自由にできる。病院の向かいにある喫茶店にも時々出向いた。看護婦さんに、二人が行動を共にしていないか悟られない様に、どちらかが時間をずらせて病棟に戻る。


ある晩、二人で屋上へと向かった。夜景を眺めているうちに、どちらからともなく寄り添った。彼女の愁いを含んだ瞳が僕を見つめている。彼女の瘦躯が僕の胸に収まった時、彼女は優しく瞼を閉じた。ああ、長いまつ毛が麗しい。


ファースト・キスは、レモンの味がすると聞いていたけれど、僕は甘くて酸っぱい、チェリーの味がした。





リトル東京七不思議




1. 日米文化会館、北側のアズサ通で、深夜に黒人霊歌が聞こえて来る。


2. サンペドロとセカンドのコーナーに、二宮金次郎の銅像がある。午前3時にウインクをするとの噂。


3. ジャパニーズ・ビレッジ・プラザで、ホームレスが毎晩櫓(やぐら)の上で眠る。


4. 夕刻に瘦身の白人が、頭にバックミラーを付けてジョギングをしている。


5. ホンダ・プラザの近くで、日本人と黒人のコンビが、日本語でストリート漫才やっている。


6. 50歳半ばの男性が、通りすがりの人を呼びとめて、「寿司を握らせておくなさい」と言う。


7. 泳ぐ格好をして歩く女性が、時々出没する。





2011年6月3日金曜日

道楽




アメリカのフランス料理レストランは、僕の舌を満足させてくれない。趣向を凝らした盛り付けだけが豪奢(ごうしゃ)である。味の方は少しばかり不味だ。


日本ではフランス料理の超高級店に行けば、それなりに美味しい。だが、目の玉が飛び出るほど高い。


フランス料理は本場に限る。名の通った三ツ星レストランではなくとも、ブラッスリーでも僕の舌を満足させてくれる。


かつて僕がフランスへ頻繁に行っていた頃、モンパルナス駅の近くに男性が二人きりで、切り盛りしている食堂を見つけた。路地を入ったところで分かりにくい。そんな場末の食堂でさえ、舌鼓を連打した。


安価で美味いから、僕がパリ滞在中は、食堂『マリア』を贔屓(ひいき)にした。パリは至る所に、安価で美味しい食堂がある。


パリには美味しい惣菜店も充実している。帆立て貝のテリーヌとフォアグラのテリーヌを買って、パンとチーズとワインがあれば、安ホテルでディナーを楽しむことができる。


また、パリの総菜店のスモークサーモンは、度肝を抜かれるほど最高に美味しい。毎回LAに持ち帰ることにしている。


僕がフランスに出向くのは、敬愛するシャルル・ボードレール先生の研究が目的。ホテル・ソルボヌに投宿して、ソルボヌ大学の図書館に通う。モンパルナス墓地には、幾度も通った。ボードレール先生の墓の前で、何枚も写真を撮った。ボードレーヌの研究をしても、お金にはならない。早い話が道楽である。


僕が日本にいた頃は、文学極道であった。極道から道楽へ出世をしたものだ。同じようなものか?





2011年6月2日木曜日

民主党




民主党はマニフェストを守っていない。天下り問題も野放し状態のままだ。


日本の政治は、公務員の公務員による公務員のための政治だ。


期待していたのに、鳩山政権と管政権にがっかりとした。


ニュースを聴いていて、愕然とすることばかり。


僕の病状をこれ以上悪化させないでくれ。





リーダーシップ




このところ数日、テレビばかりを観ている。5月は通院の日は1日だけだったので、朝から晩まで、テレビにかじりついていた。


テレビで観ている限りでは、管直人総理大臣の姿勢が悪い。はきはきと発言することが出来ない。背筋を伸ばして、大きな声で力強く意見を述べることによって、国民に信頼と安心を与える。 


アメリカのオバマ大統領は、姿勢が良くて演説も上手い。おまけに行動も早いし実行力もある。リーダーシップが、あるかないかの違いによって、政治に大きな差が出る。





2011年6月1日水曜日

夢を食べるイタリアン




Messagepart


サンタモニカのイタリアンレストラン『Drago』に、3年振りに赴いた。


訪れたのは2度目である。いずれもランチ・タイム。2回とも僕がオーダーした料理は、カラスミのスパゲティ(Bottarga)14ドル。(写真)


あっさりとしたコクがあり、正しく調和のとれた風味と旨味。サンタモニカのそよ風が心地よい。夢を食べるイタリアンに、僕は舞い上がる。


詳しくはホームページを見てネ!





『花亀』




90年代初頭、リトル東京のホンダ・プラザに、天ぷら屋『花亀』があった。主人の職人は無口で計算高くない、商売が不得手な人物であった。女将さんは奇人である。


そんな二人が、店を切り盛りしているのだから、ご多分にもれず不協和音が轟く。店には何時も5歳の娘がいて、客から客へと戯れる。客は笑顔で対応するも、本心は迷惑だ。メニューには娘の写真が貼り付けてある。


天ぷらの味は、日本の天ぷら屋以上に美味しい。聞くところによると、東京の有名天ぷら店、一見さんお断りの店で修業したとか。


天ぷら油は、サラダ・オイルにゴマ油を少し入れて使う。関西では綿実油だけで揚げる。その方が美味しいと大将に告げると、2週間ぐらい経ってから、日本から綿実油を取り寄せたと、『花亀』の大将は僕に報告をした。


刺身定食もある。これがまた鮨屋の刺身よりも美味い。リーズナブルで佳味とくれば、繁昌しても、よさそうなものだが、店の雰囲気が悪くて何時行っても閑古鳥。


最後の常連は僕一人になった。2年余りで店をたたんだが、負債を抱えるも家族3人で、2週間イギリスで夢のバカンス。


それにしても、『花亀』の天ぷらは、超美味かった。今でも江美子と語り草になっている。





2011年5月31日火曜日

遭遇




映画『未知との遭遇』以来、若者の間で「遭遇」が流行った。


好きな人と遭遇する。先生と遭遇した。美味しいレストランと遭遇する。どれも間違えだ。


嫌なものに偶然出会った時に、遭遇を使う。


山中で熊と遭遇する。事件現場に遭遇する。





2011年5月30日月曜日

清酒




僕みたいに気が弱くて、意志薄弱の者が、ここまで回復できたのは、イエス様の癒しを信じる心を持ち続けたからだと思う。


ただ信ぜよ 信じる者は救われる。聖書の御言葉に、嘘偽りはない。ハレルヤ!


 


※   最初、キーボードで聖書と打つところを、かつて僕の大好きな清酒と打ち間違えました。





週末




太郎は店の営業時間を調べた。週末は11時から6時。


週末って何曜日。


金、土、日、それとも金、土、或いは土、日。


週の初めは、日、それとも月。


神様は天地創造の時、第7日目に終わって休まれた。


従って日は、週の最後。


そうなると週末は土曜日だけ。


店長に聞くと、週末は土と日。


しっくりと来ない、太郎でした。








フランスへ江美子と一緒に旅行に行った際に、パリ在住の畏友に、お薦めの観光地を訊ねた。即座に友は、モンサンミッシェルと答えた。


海に忽然と姿を現わす小さな島に、高くそびえたつ教会は、下から見上げるとあまりにも巨大で感奮すると言われて、レンヌを目指してTGVに乗った。レヌンから更にバスで1時間半、いよいよ世界遺産のモンサンミッシェルだ。


僕はツアーの仕事を長きにわたりやって来た。グランドキャニオンも幾度か赴いた。で、モンサンミッシェルを見る前に、グランドキャニオンことを想像していたら、モンサンミッシェルを見た途端に、拍子抜けしてしまった。拍子抜けしてしまったのは、僕が想像を膨らましすぎたからだ。 


確かに、モンサンミッシェルは素晴らしい。僕たちは隣の村、ポントルソンのホテルで投宿することにした。早速、田舎のお惣菜屋さんを訪ねてみた。老婆が容器持参で買い物に来ている。ニシンのオイル漬けを買っていた。容器持参だなんて、日本の田舎とどこか似通っている。


明日は移動日、モンパルナスへ帰って再びTGVに乗る。目指すは食通の街リヨン、お目当ては言わずと知れた三ツ星レストラン、ポール・ボキューズ。


初日の夜は、場末のブラッスリーで舌鼓。二日目のディナーは、ダーク・スーツに着替えて、ポール・ボキューズに、いざ出陣。





2011年5月29日日曜日

ホテル・カリフォルニア




27、8年前に、ダウンタウンの西外れ、6thストリートに、カリフォルニア・ホテルがあった。


僕は自動車で、ホテルの前を通るたびに気になっていた。これがイーグルスのホテル・カリフォルニアか? 小さくてみすぼらしい。


サンセット・ストリップのタワーレコードに立ち寄って、イーグルスのホテル・カリフォルニアのレコード・ジャケットを確認した。見た事のない建物が、ジャケットの写真として使われていた。


5、6年の後、僕はツアーの仕事を始めた。観光客を連れて、毎日ビバリーヒルズへ赴いた。或る時、僕は気がついた。レコードのジャケットは、目の前にあるビバリーヒルズ・ホテルだ。


それ以来、観光客に「ビバリーヒルズ・ホテルは、イーグルスのホテル・カリフォルニアのレコード・ジャケットに使われております」と説明をした。


 





2011年5月28日土曜日

テレビ・ジャパン




『NHK俳句』と『俳句王国』をテレビ・ジャパンで毎回観ている。勉強になること数多だ。番組は午前3時半に始まる。不便極まりない時間帯。昼ぐらいに再放送をやってくれることを望む。


今、この記事を書いていて気付いた。タイマーをしかけて録画という方法もある。なぜ気付かなかったのだろう。


『サラリーマンNEO』は全く面白くない。観ていて腹が立つ。昔の『ゲバゲバ90分』の方が、はるかに面白い。


好きな番組は『金曜バライティー』、『生活笑百科』、『美の壺』、『ためしてガッテン』、『世界ふれあい街歩き』、『アンパンマン』。





生き抜こう




ジョイは何時も9時半に寝る。寝る前に、僕と一緒にお祈りをする。お父さんの病気が治りますように。お母さんのストレスがなくなりますように。私のアレルギーが治りますように。そして日本のためにも祈る。


食前の祈りを入れると、毎日5回は祈る。祈りは岩をも砕く。力強い祈り、優しい賛美。


今日も力の限り、一生懸命生き抜こう!!!





2011年5月27日金曜日

『ちく満』




Messagepart


大阪で蕎麦を食べるなら、堺市宿院町の『ちく満』(ちくま)へ。僕は36年前に、初めて『ちく満』で、せいろそばを食べた。


その時、目からうろこが落ちる美味さは、今でも鮮明に覚えている。せいろを食べた後に飲む、かまくら(そば湯)は、五臓六腑にしみわたる。


この美味さは、筆舌に尽くしがたい! 日本人に生まれて良かったと、充実感かほとばしる。


 


大阪府堺市堺区宿院町西1-1-16    072-232-0093     定休日-月曜(但し月曜日が、祝日の場合営業、翌日休み)


 





2011年5月26日木曜日

お茶の話




♪ 夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る・・・


 茶摘みの時節は産地によって異なるが、東海地方では八十八夜前後の、四月下旬から五月下旬にかけて行われる。


「一番茶 摘みて畑小屋 水もなし」(石川桂郎)。四月下旬に芽摘みしたものを一番茶と呼ぶが、その味わいは格別で最上だ。


日本からの来客が次から次へと訪れると、わが家の台所の棚は、たちまち各地の日本茶で溢れてしまう。その代わりと言っては何であるが、賓客を主要観光地へ案内するのは慣れたもので、お茶の子さいさいである。


「お茶の子」とは、茶菓子の意であるらしい。お茶を飲みながらであれば、菓子類がいくらでも腹に入ることから、何の苦もなく簡単にやってのける様子を表している。


その後に、俗謡の「のんこさいさい」という囃子詞を結びつけて、テンポのある語調が広まった。


チャイナタウンにある行きつけのレストランで食事をする際に、必ず注文するのがプーアールに菊の花をブレンドしたコッポウ茶。夜は仕上げに、特製のザーサイでお茶漬けをするのが習慣になっている。


ひところ味わったお茶漬けで、忘れられないものが幾つかある。温かいご飯の上に、トンカツを載せたカツ茶漬け、岩屋(淡路島)で食べた鯛茶漬け、うなぎの蒲焼をのせたウナ茶、極め付きはクサヤのお茶漬け。


「駿河路や はなたちばなも 茶のにをひ」(松尾芭蕉)


五月には、初摘み新茶が市場に並ぶ。新芽がふくらみはじめ、これから一気に成長しようとする短期間に、黒いネットをかぶせて育てたお茶を、かぶせ茶という。二次加工を一切施さない「あら茶」のままの「かぶせ煎茶」の滋味は、「これぞ、究極の、至福の一服!」、唸ること受け合いである。(詳細:www.obubu.com





2011年5月25日水曜日

虹色の天国




僕は癌であるが、癌でないような気がする。悪い夢か、冗談でも言われているような気がする。


夕べ、難病の子供たちを助ける夢を見た。


同じ人生なのに棘(いばら)の道が果てしなく続く、やがて神様が用意してくれた、パラダイスが待っている。難病の子供たちに、僕が伝道する夢を見た。


「神は愛なり!」、そう唱えると子供たちは、虹色の天国へキラキラと羽ばたいて行った。





2011年5月23日月曜日

従妹の家で




Messagepart


江美子の従妹のハズバンドは、スペイン系アメリカ人。料理が得意、食通でもある。従妹の家に行くと、美味しいワインとご馳走で持て成してくれる。食後にはシガーもでる。


トニーと僕とは気心が知れ合う仲だ。ベルギーに旅行に行った折に、江美子と一緒にレストランでパエリアを食べた。そのことをトニーに告げると、「ベルギーでパエリア?」怪訝な顔をされた。


美味しかったとトニーに報告をしたら、「本場(スペイン)のパエリアはもっと美味しいよ」と返事が返って来た。なるほど、外人が韓国に赴いて、鮨が美味かったよと、言うようなものか。


フランス在住のJTBに勤める知人が推奨してくれた。パリから夜行バスに乗り、スペインに行くと美味しい蛸(タコ)が食べられるという。早速、行動を開始した。


蛸も美味だが、鰯(イワシ)の塩焼きがこれまた美味い。お隣のポルトガルも鰯の塩焼きが名物だ。日本では名物とはいかないにしても、昔ながらの素朴な料理。


写真は鰯の塩焼き、フレンチ・フライが添えてあるからには、ファースト・フード。野菜もサイドに付いている。鰯にレモンを絞ってから食べると美味しい。


トニーの希望で、僕は京都たるげんの桶に入れた湯豆腐を持参した。ダシは特製、たるげんの桶は炭火で温めるように施されている。


この日は(5年前)、シガーとコニヤックで締めくくった。





便所掃除





 


便所掃除


浜口国雄


 


扉をあけます。


頭のしんまでくさくなります。


まともに見ることが出来ません。


神経までしびれる悲しいよごしかたです。


澄んだ夜明けの空気もくさくします。


掃除がいっぺんにいやになります。


むかつくようなババ糞がかけてあります。


 


どうして落着いてくれないのでしょう。


けつの穴でも曲がっているのでしょう。


それともよっぽどあわてたのでしょう。


おこったところで美しくなりません。


美しくするのが僕らの務めです。


美しい世の中もこんな所から出発するのでしょう。


 


くちびるを噛みしめ、戸のさんに足をかけます。


静かに水を流します。


ババ糞に、おそるおそる箒をあてます。


ポトン、ポトン、便壺に落ちます。


ガス弾が、鼻の頭で破裂したほど、苦しい空気が発散します。


心臓、爪の先までくさくします。


落とすたびに糞がはね上がって弱ります。


 


かわいた糞はなかなかとれません。


たわしに砂をつけます。


手を突き入れて磨きます。


汚水が顔にかかります。


くちびるにもつきます。


そんなことにかまっていられません。


ゴリゴリ美しくするのが目的です。


その手でエロ文、ぬりつけた糞も落します。


大きな性器も落します。


 


朝風が壺から顔をなぜ上げます。


心も糞になれて来ます。


水を流します。


心に、しみた臭みを流すほど、流します。


雑巾でふきます。


キンカクシのウラまで丁寧にふきます。


社会悪をふきとる思いで、力いっぱいふきます。


 


もう一度水をかけます。


雑巾で仕上げをいたします。


クレゾール液をまきます。


白い乳液から新鮮な一瞬が流れます。


静かな、うれしい気持ですわってみます。


朝の光が便器に反射します。


クレゾール液が、糞壷の中から、七色の光で照らしています。


 


便所を美しくする娘は、


美しい子供をうむ、といった母を思い出します。


僕は男です。


美しい妻に会えるかも知れません。


 



 


八年ほど前にも、他紙でこの詩を紹介したことがある。この臭くて汚い、顔をしかめたくなる様な詩は、岩波新書の『詩の中にめざめる日本』(真壁仁篇)に収録されている。


浜口国雄は、往時、金沢車掌区に勤務する労働者であった。一九五五年、『便所掃除』は第五回、国鉄(現JR)詩人賞を受賞している。


浜口は便所掃除を始めるにあたって、神経が麻痺するほどの尾籠(びろう)な有様を見て、気が腐る思いになった。けれども、自ら与えられた任務を「美しい世の中もこんな所から出発する」と達観させている。


そこには、生真面目で純真な青年像がうかがえる。孤軍奮闘しながら便所掃除の過程を克明に描いたこの作品は、六連目の「静かなうれしい気持ちですわってみる」充足感によって、この詩を超越した、真壁仁の言う「倫理と英知がひらめいている」。


最後の連は、ともすれば浮かれ気味になる場合が多いが、読後感が爽やかで巧みな結びとなっている。冒頭で汚い詩であると書いたが、とんでもない、無類に美しい詩なのである。





2011年5月22日日曜日

行こう




最近、体の調子がものすごく良い。相変わらず右半身は不随で、言語障害がある。近い距離なら歩くことができる。スーパーで買い物をすることは唯一の楽しみ。


夏休みになれば、三人で映画を観に行こう。三人でレストランに行こう。三人でクリスチャン・リトリートに行こう。





2011年5月21日土曜日

歯が痛い




新井(歓喜)ジョイ 9歳


 


痛い 痛い


歯が痛い


グラグラ グラグラ 歯が痛い


 


痛くて 痛くてしょうがない


ああ どうしよう どうしよう


 


痛い 痛い


いじわるの歯


わたしをそんなにいじめないでよ~


 





2011年5月20日金曜日

ハンバーガー




このほど、ウィスコンシン州に住む、ドン・ゴースクさんは、マクドナルドのビッグ・マックを1日2回、39年間食べ続けた。その数25000個。


アメリカ人の半数以上は、ハンバーガーを1日1回は食べる。アラバマに住んでいる知人は、ロサンジェルスに遊びに来た際、ランチにチーズバーガー。僕がディナーは何が食べたいと促すと、チーズバーガー。


或るアメリカ人が語った。ハンバーガーは、栄養のバランスが配慮されている食べ物。これは昔の話、オールド・ファションのハンバーガーは、レタス、トマト、オニオンが入てる。最近のハンバーガーは、野菜の量が少ない。


因みにバンズの上部がクラウン、下部がヒールと言う。





2011年5月19日木曜日

真夜中の日課




ロサンゼルス郊外


深夜のフリーウェイ沿いに 車を停車した


 


垢づいた黒い空に


タコベル


マクドナルド


デニーズのネオンサインが


魔女~魔女~揺らいでいる


 


一体おれは、どうして


なぜ、この年齢になって


今、ここにいなければならないのだろうか


 


毎日、同じ車を運転して


同じ道を通い


同じものばかりを腹に入れて


同じ人間たちと付き合っていく


 


おれは今、女(スケ)を迎えに来たのだ


時には車から抜け出して


おれは魔女たちと重なり合いながら


過去と現在と未来を置き換える


 


同じねぐらへ、女と一緒に帰るために


おまんまを腹いっぱいになるまで喰らいたいから


夜な夜な、おれは同じことを繰り返す





短気




「らっしゃ… ぃ」


「ざるいちめぇ!」


「相変らず早いね」


「こちとら江戸っ子よ、気が短けぇーんだ」


 


「へい、お待ち」


「よぅよぅよぅ、にめぇも頼んじゃいねぇよ」


「さっさと食え、明日の分だ!」





2011年5月18日水曜日




詩を書けば誰でも詩人である。僕も詩を書くので、周囲の者からは詩人として紹介されることがしばしばある。しかし、未だかつて自ら詩人であると名のったことはない。それは詩人に対する深い畏敬と、高貴な詩の世界へのあこがれがあるからだ。


僕の書く文章は水に浮かぶカワウソの戯れに過ぎない。彷徨のエトランゼ気取りで、少しささくれていたい気持ちが、いつも細波(さざなみ)のように僕の胸底に打ち寄せ、時として砂漠の砂を噛む思いで現実を呪う。多分、多重とか虚像とか、そして光とか宇宙といった限りなく屈折する相剋に、僕は迷い込んでしまったのだ。


黄昏に、牧歌的たたずまいの小径を歩いていて、馥郁と漂う木犀の香りにつつみ込まれた瞬間、ふと、素直な自分に充足と安らぎを覚えるのだが、詩を書くことは、僕にとってはその瞬間をいつまでも継続させる純白であり、解放ですらある。


そして本当の自由とは神(God)の御前に跪き、頭(こうべ)を垂れて自分の罪を悔い改めることから始まるように、僕の詩業もまた、つねに新しく生まれ変わることから出発する。そして新しい第一歩にはにかみと狂気を携えて、僕は、僕自身を、僕自身は、僕を模索し始める。


旧ソビエトの亡命詩人ヨセフ・ブロッキーが若いころ、「詩は教えられるといったものではなく、神様から来ると思う」と語った。最近つとに思うのだが、詩を書くことは、神から与えられた仕事であると考え始めている。換言すれば、「詩人の声は単なる人間の記録に留まるだけではなく、人間が耐え、勝利するのを助ける柱の一つとなること」。このフォークナーの詩人の義務に起因する。


T・Sエリオットが、ボード・レールからの衣鉢を、明瞭な倫理的また神学的な基準をもって吟味した上で、世界中の詩人たちに伝達したように、僕もまた、デカダンスの奥義に翻弄されることなく、常識や人間の知識と理性にあって小さくも大きな傲慢に屈せず、のべつ謙虚な態度で文学と対峙していたい。





美しいこと




この世で最も美しいことは、神に祈り、賛美することである。


僕は今日も、神に祈り賛美する。





12月24日




僕の鳩尾(きゅうび)に穴があいたからと言って


そんなに見つめないでください


 


悲観的になったり


過去にこだわったりするのは


そのせいではないのです


 


いつの日か


小さくてもいいから


心の安らぎが得られるまで


応急手当をしてくれれば


それでいいのです


 


僕は「ありがとう」ってみんなに言いたい


でも 鳩尾に穴があいているせいか


寒くて 寒くて


口元が震えてはっきりと言えないけれど


 


いつの日か


小さくてもいいから


心の安らぎが得られた時


幸せに満ち溢れた顔で


心から微笑んで「ありがとう」って言うよ


 


人々が血潮を懸けて祈る暮夜


恋人たちがシャンパンの栓を抜く夕暮れ


そして


ミサが始まる朝


 


僕の鳩尾に穴があいてしまった





2011年5月17日火曜日

最近の日課




7時15分起床、食前の薬を飲む、ジョイの朝食を作る。ジョイ学校へ。


9時に江美子が帰って来る。一緒に朝食、メール、インターネットチェック。TV鑑賞


午前11時頃から昼寝、原稿書きの仕事、PC相手に将棋を指す。ランディー(昼夜)を食べる。


家族団欒ひと時、江美子が仕事に出掛ける。ジョイ就寝9時半


ジャズを聴きながら10時から午前3時まで、原稿を書く。





2011年5月16日月曜日

三木露風




 


夕焼け小焼けの、赤とんぼ


負われて見たのは、いつの日か


 


山の畑の、桑の実を


小籠に摘んだは、まぼろしか


 


十五でねえやは、嫁にゆき


お里のたよりも、絶えはてた


 


夕焼け小焼けの、赤とんぼ


とまっているよ、竿の先


 


国民的動揺である『赤とんぼ』は、詩人の三木露風が大正9年(1920)に作詞している。その後、昭和2年(1927)に山田耕筰が作曲を手掛けてから、日本全国で『赤とんぼ』の歌が親しまれるようになった。


さて、大正9年(5月)は、露風が北海道のトラピスト修道院に講師として赴任した年である。おそらく露風は住み慣れた東京を離れて、懐旧の念にとらわれながら、生まれ育った故郷(兵庫県龍野町)のことを思い浮かべながら『赤とんぼ』の歌を作詞したのだろう。


「夕焼け小焼けの赤とんぼ」も、「とまっているよ、竿の先」も、幼い頃に見た露風の原風景である。露風はこの同じ光景をトラピスト修道院で体験することによって、一つのインスピレーションが閃いたのである。


母の背に負われて見た赤とんぼは、今でも自分の目の前に現存し、桑の実を摘んだ思い出や面倒見のよかったねえやへの郷愁は尽きることがない。けれども、最後の歌詞部分である「とまっているよ、竿の先」だけは、原風景と異なっていた。


実は四番目の最後の句は、露風が龍野高等小学校在学中に作句したものである。「竿の先」に静止している「赤とんぼ」の風姿は美しくも切なく、いつしか消え去ってしまうであろう幻の不安が、物心がついた頃から露風の感性を憂えさせていた。それは正しく寂寥(せきりょう)たる眺めであったにちがいない。


それから時は流れて、三十二歳になった露風はトラピスト修道院でも、竿の先にとまっている赤とんぼの「原風景」を見ている。露風の目の前に現れた幻は相変わらず美しい。けれどもそこには、もはや露風を深憂に陥れるような「原風景」は存在していなかった。


露風が新たに捉えた竿の先にとまっている赤とんぼの姿とは、信仰と希望と愛の象徴である十字架であった。夕日に映える赤とんぼの十字架が、至上の愛をかざして露風の目に映っていたのである。この揺ぎ無きキリストの愛によって、一切の不安から解放されることを確信していた露風は、『赤とんぼ』の終わりの一行を、幼児期から少年時代にかけて纏わりついていた「寂寥」を葬って、希望の灯火として歌えるように、竿の先にとまっている「赤とんぼ」に十字架への思いを込めている。


2年後、露風は詩集『信仰の曙』を上梓して、妻と共に受洗。翌年、修道院を辞して帰京した。


 





脱皮




こんなはずじゃなかったのに


白いシーツに酒の匂い


白い壁にカクテルグラス


扉を開けると


二人きりで君の誕生日を祝ったね


 


ポタージュとハンバーグをまわして遊んだ思い出


君の友達をまわして泣けてきた


でも何かまわしたりないみたい


 


午後九時三十分


電話のベルは鳴るはずがない


そのかわり


感情豊かな弦を聞いています


だから


もう


地下鉄には乗りません


パルファンの薫が消えるまでは


フルートをウィッファーと呼べるまでは


地下鉄には乗りません


 


モスコミュールを飲むことがあったら


目薬をさすんだよ


ミュートに


ああ


メイナード・ファーガソンのホーンが


ミュートに聞こえる


 


こんなはずじゃない


こんなはずじゃなかったんだ





2011年5月15日日曜日

茶のにおい




新茶の時節到来である。香気の高いはしり茶を、舌の上で転がすようにして味わうと、萌え出た芽の風味が咽頭にしみかえる。


「駿河路や はなたちばなも 茶のにをひ」


静岡にある『世界緑茶協会』事務局が監修しているエッセイを読んだ。そこに、芭蕉の句に出てくる「茶のにおい」ついて言及されてあった。


すべての国文学者は、茶のにおいを新茶の香りであると解釈しているが、芭蕉がこの句を詠んだのは五月中旬。太陽暦に換算すると六月の初めになる。新茶の季節は既に終わっている。従って、はなたちばなの香りを圧倒する茶のにおいとは、街道筋周辺の民家が自家用の番茶を作るために、生葉を釜で炒ったにおいであるというのである。


芭蕉は、江戸から東海道を京へ向かっていた途中で、大井川の川止めにあって島田で四泊している。芭蕉は余儀なく足止めされた期間に、農家や投宿先の軒下で、お茶の葉を炒る強い香りを嗅覚していたのであろう。


それから、「はなたちばな」の季語は夏であるから、芭蕉がこの句を詠んだのは、六月の初めとする見解に異論はない。


但し、静岡のお茶の収穫期は四月下旬から九月までである。その期間に四回にわたってお茶の葉が収穫される。即ち、芭蕉は二番茶の収穫期にあたる六月に、駿河路へ差しかかったのである。また、新茶が出回るこの時節において、日頃、まめに生葉を炒る農民たちも、この季節ばかりはその手を休めて、はしり茶を賞味していたのではないだろうか。


このようなことから「茶のにおい」とは、一番茶でも、お茶の葉を炒ったにおいでもないのである。芭蕉は二番茶の香りを詠んでいたのだ。と解釈しているのであるが、これはあくまでも私見に過ぎない。


日本から小包が届いた。新茶の味わいは格別である。それでは一句添えて、礼状をしたためることにする。


『風光り小包いたる茶のにおい』





メチャウマイ




黒毛和牛のA5ランクを、安値で食べられる。数年前、僕は半信半疑で炭火焼肉の『かうかう倶楽部』へ赴いた。


一口噛んだ瞬間から、正に天に昇る心地がした。肉の旨味が凝縮されていて、佳味甘露。平たく言えば、美味しすぎる。安すぎる。


黒和牛ハネシタと産地直送の生レバーは、絶対に食べるべき。絶対に行くべし、メチャウマイ、またとない名店。


※  ハネシタとは、牛一頭より2~3キロしか取れない希少部位


 


大阪府茨木市豊原町2‐4   072‐640‐4538   定休日・火曜





2011年5月14日土曜日

レモン哀歌




 


 


レモン哀歌 


高村光太郎


 


そんなにもあなたはレモンを待つてゐた


かなしく白くあかるい死の床で


わたしの手からとつた一つのレモンを


あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ


トパアズいろの香気が立つ


その数滴の天のものなるレモンの汁は


ぱつとあなたの意識を正常にした


あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ


わたしの手を握るあなたの力の健康さよ


あなたの喉に嵐はあるが


かういふ命の瀬戸ぎはに


智恵子はもとの智恵子となり


生涯の愛を一瞬にかたむけた


それからひと時


昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして


あなたの機関はそれなり止まった


写真の前に挿した桜の花かげに


すずしく光るレモンを今日も置こう


 


詩集『智恵子抄』(一九四一年刊行)に収録されている「レモン哀歌」は、智恵子夫人が歿してから五ヵ月後の作である。書き出しと結びの二行を見れば、死歿してから何日かが経過して作られた作品であることが窺われる。


智恵子が亡くなったのは、昭和十三年(一九三八)の十月である。往時の日本国内におけるレモンの普及状況は定かではないが、レモンの収穫時期は秋なので、容易に手に入れることが出来たのであろう。


盛夏から秋果に掛けては、葡萄、桃、りんご、柿など旬の果物が多い。光太郎は『智恵子の半生』の中で「わたしの持参したレモンの香りで洗われた彼女は、それから数時間のうちに極めて静かにこの世を去った」と書き記している。


では、どうして光太郎はレモンを選んだのかと、まず考えてみた。例えば時節の一輪の花や、智恵子が情熱を傾けていた紙絵ではいけなかったのか、或いはりんごや葡萄では光太郎の意識は感応しなかったのであろうか・・・。


やがて私は、一つの結論に達していたのである。「レモン哀歌」は詩であると同時に、絵画であり彫刻であるのだと、強く全身で感受したのだ。


かなしく白く、あかるい死の床がカンバスであれば、そこには智恵子とレモンが描かれてある。そしてレモンをがりりと噛んだトパアズいろの香気が立ちこめている。 


このあまりにも立体的な詩には、光太郎と智恵子の愛の証しが、哀しくも美麗に刻まれている。そして、私は即座に察知した。このオブジェ(「レモン哀歌」)は、円く、大きく、自然そのものを表現しているが、そこには彫刻家であった光太郎が、欧州に留学していた時分に師事したロダンの人柄と作風に、大きな影響を受けていた。


この詩の終結は、智恵子が逝ってから初めての芳春を迎えている。すずしく光る山吹色のレモンに、桜の退紅色が添えられていて、哀歌は艶やかな一枚の油彩となって結ばれている。


 





2011年5月12日木曜日

あけみさんへ




ハレルヤ!  あけみさん素晴らしいお証し、有り難うございました。癒し主、救い主、王の王、主の主ですよね。  ♪  信仰は勝利。


同じカリフォルニアに住んでいるので、近くでしたらお会いしたいです。遠くに住んでいても、主が時にかなって美しい時間をきっと備えてくれます。





女のお話




自分の気持ちに嘘をつきながら


素直になることは


女を欺くことになるのだろうか


それとも


女がウワテだけのことだろうか


だとすれば 二人ともいけないことだ


 


社交界に巣くい


朝帰りの続く女は


僕の綯い交ぜになった痛手を


しなやかな白い温もりでバラシ始めた


 


微笑み 囁き 吐息のにおい


思い切って外に出てみた時のように


女の


粘膜 軟骨に腕を突っ込み


蒼いシルクの産毛に指を侍らすと


女は何も言わない


全てのしぐさが


僕の心に深く染み入るだけだ


 


二人の出会いはイイカゲンなはず


おんなは


時々僕を誘惑する


悩ましい女


だらしのない僕


 


ある日 夢の中で


女は しおらしく泣いていた


僕は女の紅涙を舐められなかった


いったい


この女は ナニ


そして


僕だけが イケナイコトダ





テーブルマナー




アメリカの蕎麦屋の客は、みんな音を立てて食べていない。そばの味がいくら美味くても、啜りあげて食べなければ、そばの味は半減する。


そう言う僕もアメリカの蕎麦屋では、音を立てて食べないことにしている。ラーメン屋も然りである。


日本人(主に男性)は音を立てて食事をする。お茶づけ、みそ汁、そうめん。熱いお茶を飲む時に、音を立てて啜る。日本の文化だと言ってみたところで、世界には通用しない。


スープの飲み方で、何処の国の人かが分かる。手前から外へ向けてスプーンを動かす人は、イギリス人。外から手前にスプーンを動かす人は、アメリカ人。真ん中からスプーンを入れて、スープをすくいながら食べるのは、フランス人。


或る日本人のカップルが、新婚旅行でフランスへ赴いた際、三ツ星のレストランを利用した。ソムリエが飲み物を伺いに来た折に、二人が声をそろえて「コーク」と言ったものだから、ソムリエは両腕大きく開いて「オー ノウ!」と言ったとか。





2011年5月11日水曜日

カレー・メロン




♪ 花のない国、歌のない国、お菓子のない国、友だちない国、そんな国はごめんだけれど、カレーのない国もっとごめん・・・・・・。


アニメ『にこにこぷん』の挿入歌を聴きながら、


「子供って、本当にカレーが好きなんだなぁ」。つい声を発してしまった。


小学三年生の折、担任の先生がクラスの生徒全員に、一番好きな食べ物を尋ねたことがあった。その時、カレーは第二位で、トップは卵焼きだったことを憶えている。ビフテキと答えたのは、僕一人だけだった。


カレーに生卵を落として食べることはできるが、その時分はステーキ・カレーなる発想は湧いてこなかった。


僕は飲茶式のカレーがあれば良いのにと思っている。小さ目のお皿にカレーライスやカレー・スパゲッティー、或いはカレーうどんにドライ・カレーを別々に盛り付けて、トッピングが自由に選べるようになっている。量が少ないので、いろんな種類のカレーが一度に味わえて愉しい。


8年前、カレー・メロンなる新しいアイデアを考案したので、プレゼンテーションを行なった。早速、レストラン『カレーハウス』(ハウス食品)の関係者が、「これは行ける!」と語勢を強めながら身を乗り出して来た。


メロンの原産はアフリカだが、一説にはインドとされる。古のインドには、もしかするとカレー・メロンなる代物が存在していたかも知れない。





2011年5月10日火曜日

早くしないと




早くしないと


川粼 洋


 


夕日が沈む時


そのにぶい光が


遠くの景色を


みんなぼかして


ふわふわ美味しそうな色にする


 


さあ早くそれらを


かさかさとかき集めなきゃ


それ


僕の手の中で


横倒しになる森や屋根や煙突


世界は四角で木が一本だけ生えている


と思って死んでいった赤ん坊


その赤ん坊のそばの窓


早くその窓を閉めなきゃ


 


その戸が男の子の手で閉められたばっかりに


一生を台なしにした女


早くその戸を集めなきゃ


 


早くしないと


ある夕方


巨きな腕が


ゆっくり空を掻き


景色達はうっとり


その腕で空に溶けていってしまうから


早くしないと


さあ


 


 


2004年10月21日、腎不全で川粼 洋さんが死去した。七十四歳だった。


 


今回は、川粼さんの第二詩集『木の考え方』の中から、「早くしないと」を紹介させていただく。


まず、この詩を読んでみて、モティーフが希薄であると考えるのは間違っている。なぜならば失意がモティーフであり、焦燥と不安がテーマとなっているからだ。


当事者以外には、つかみ所のない日常の些細な出来事や、目に入るあらゆる風景や生物、そして人物などから、一見、希薄と思われる象徴詩が誕生する。


往時の川粼さんは生活苦と闘いながらも、詩作においては諧謔(かいぎゃく)の精神を貫き、象徴的なポエジーに血路を見出していた。


即ち、川崎さんはこの詩を書く上において、モンタージュの技法からヒントを得ながら、周辺の美と焦燥を見事に謳いあげているのである。





2011年5月9日月曜日

ムービー




渡米して30年の間に、『ET』、『アメリカン・ビューティー』、二つの映画しか観に行ったことがない。


いずれも、友達に誘われて映画館へ足を向けた。誘われてなかったら、全く映画を観やしなかったであろう。


それほど僕は、映画に関しては無頓着な人間だ。俳優の名前も全く知らない。古い俳優ならば覚えている。


映画の都ハリウッドのお膝元に住んでいる割には、映画に興味が湧いたことがない。こんな僕でも感動した映画がある。『東京物語』、『荒野の七人』、『思い出の夏』、『卒業』。


15歳の頃に観た映画は、『思い出の夏』。主人公は僕と同じ15歳の少年、やがて少年は、年上の女性と恋におちいる。


僕はこの頃、大阪の警察病院に入院をしていた。4歳年上の看護婦さんに片思い。映画の主人公と僕とだぶらせた。


映画は、ミシェル・ルグランの甘く切ない曲が流れる。





朝のデッサン




 


 鎖の付いた光彩


 


白い手で蠱惑(こわく)するときめき


 


朝もやの悪戯


 


ペパーミントの幻想


 


もう それだけで


僕自身


 


十分なんだ





2011年5月8日日曜日

証しにならない




アメリカ人の教会を借りて、在米日本人のための伝道集会が開催された。企画をしたのは、日本人クリスチャンの若者たち。


若者はステージで聖歌の曲を演奏して賛美する。聖書の拝読、証し、説教ありで、伝道集会は成功裏に終わった。


クリスチャンは見られている。ノンクリスチャンはクリスチャンに期待されている。


先ず、品性を持って笑顔で誠実に生きることだ。クリスチャン全員が微笑んで、明るく生きるならば、それだけで伝道になる。


伝道集会を開いた若者のクリスチャンは集会終了後、教会の掃除と諸々の後かたづけを怠った。教会の牧師は頭(かぶり)を横に振った。


若者は顰蹙(ひんしゅく)を買うことになった。神様を伝えても、これでは証しにならない。





2011年5月7日土曜日

よだれが出るよ!




何べんも言うようやけど、大阪には安くて旨いもんが、ぎょうさんおまっせ! ホルモン焼きと言えば大阪、『ホルモン本舗』西中島店は、安価で珍しいホルモンの宝庫や!


塩アキレス、塩コリコリ、オッパイ、コブクロ、カズノミ、マシュマロ(フク)、メニューの一部


七輪で豪快に焼くホルモンは、よだれが出るよ! ホルモン・ナンバーワンの『ホルモン本舗』。


東京にもあるでぇ。


大阪市淀川区西中島3‐19‐2 三ツ矢ビル1階    06‐6307‐8929    無休





焼き肉




焼き肉チェーン店『焼肉酒家えびす』で、ユッケを食べた人が食中毒で死亡した。恐ろしい話だ。人ごとではない。


僕も年に何回か、焼き肉のレストランに赴く。カルビ、テッチャン、ユッケ、生レバーを毎回注文する。


自宅の近所の焼き肉屋、PCHの『たまえん』。たまにコリア・タウンまで足を延ばす。


この度の事件で、ユッケは「トリミング」を施してからサーブされることが分かった。今まで、僕は知らなかった。


『牛角』では、あらかじめユッケは熱処理を施している。これも知らなかった。これから夏にかけて、食中毒の季節を迎える。


調理人は、衛生管理を怠っては絶対にならない。


松阪の駅前で、焼き肉(ホルモン焼)食べたいよーっ!!!





2011年5月6日金曜日

詩三篇




 


勝利


 


「負けるが勝ち」


年齢を重ねるごとに


この言葉の意味が


重みを帯びてきた


 


負け惜しみではなく


自分の心を解放することによって


相手の心までもが変わってくる


 


「負けるが勝ち」


謙遜は神様に愛される


最良の近道だと思う


 


 


 


 



 


裸一貫で渡米して


富と名声を手に入れることが


アメリカン・ドリーム


 


けれども


時として夢は


落とし穴だらけの


自滅の道でもある


 


マザー・テレサの信条は


「なくても与える」


 


より少なく持てば


その分 より多く与えられる


より多く持とうとすれば


より少なく与えることしかできない


 


真実の夢には


力強い愛が見える


 


 


 


 


自制


 


ジャン・コクトーは語った


「金持ちになった貧乏人は


贅沢な貧しさをひけらかすであろう」


 


聖書は伝えている


「わたしの恵みは


あなたに対して十分である」


 


ソルジェニ-ツィンの21世紀論の一つは


「真の精神的満足は


何かを手に入れることではなく


それを拒否することによってのみ得られるのである」


 


 


 


 


 


 





2011年5月5日木曜日

食育




アメリカ人は週末になるとスーパーに、一週間分の食料を買い出しにやって来る。大きなショッピング・カートには、缶詰、冷凍食品、清涼飲料水が山と積まれている。不健康な食品ばかりを買い込む。客も従業員もみんな肥満体。


アメリカ人は老若男女を問わず、甘い物が好きだ。これでは子供の頃から、生活習慣病に罹ってあたりまえだ。 


即刻、食育に一石を投じたのは、ミシェル・オバマ大統領夫人。アメリカの未来を担って立つ子供たちが、ジャンク・フードの餌食になっているという。(『「パン」について考える』参照)


経済大国なのに、食文化は貧困だ。アメリカのスイーツは強烈に甘い。着色料をふんだんに使う。国民を病気に陥れる。


今、ミシェル・オバマの提案に、真剣に耳を傾ける時が来た。





詩碑誕生




 2005年の秋、リトル東京のど真ん中に、重さ一・七トンの詩碑が建立された。大理石に刻まれている詩文は、加川文一(一九八一年、歿)の『海は光れり』(一九四一年、作)。


僕の目には、この艶やかな岩石のモニュメントが、『鉄柵』や『南加文芸』で活躍していた猛者(つわもの)たちの、友誼に厚い証としての金字塔に見える。


この『海は光れり』という詩は、冒頭の加川夫人の短歌も含めて、近代抒情詩の、そして移民文学の傑作である。


「きょうも海は光れり」。この脈々たる希望の精神は、文一の妻に対する限りない包容力の表明である。文一の絶唱は、これからリトル東京に憩う人々の、心のよりどころとなるに違いない。


除幕式では、『南加文芸』の同人であった山中真知子さんが、詩の朗読に入る前に、天国にいる加川文一に届けとばかりに、「加川文一、あなたの詩碑が建ちました。あなたが暮らしていた日本人街に建ちました…… 」切々と語る口調が、真に感動的であった。


『南加文芸』は不滅である。そして、この地に文学を愛好する者が、数多くいることを認識させられた。


夕べ、僕は独りで、色無き風のなかに佇み、文一の詩碑と対峙しながら、詩文を音読してみた。


 


 


妻よ


今日も海は光れり


人の住む陸を抱きて


するどく海は光れり


 


 


結びで感極まった僕の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


『詩碑仰ぐ一掬の涙秋深し』





2011年5月4日水曜日

大ショック




江美子の従妹の子供が、日本語学園共同システムのスピーチ・コンテストに出場するという。僕たちファミリーはリトル東京にある、会場となっている禅宗寺を訪れた。


スピーチ・コンテストに参加する生徒は約55人いた。僕は病気になる以前に、審査員を務めた事がある。コンテストは4時間近くもかかった。惜しくも従妹の子供ジャキーは、入賞を逃がした。日本語を勉強し始めてから8ヶ月、ジャキーは非常に優秀な子供で、16歳の時に大学に入学した。


僕はジャキーと約束をした。メールで日本語を教えると。


帰りにみんなと一緒に、18年振りに『こけこっこ』(カテゴリー食、参照)で焼き鳥を食べた。味が落ちた、美味しくない、僕は大ショックだった。もう、二度と行くまいと決心した。





2011年5月2日月曜日

ドナルド・キーン




日本文学研究者のドナルド・キーンさん88歳が、東日本大震災をきっかけに、日本に永住(帰化)されることが、このほど決まった。独身を通してしてきたキーンさんは、「私は日本という女性と結婚した」。彼は日本の国をこよなく愛しているのだ。


僕はドナルド・キーン先生の『太宰治論』に、異論を唱えて四半世紀が経つ。旧ラッパを吹くひつじ『太宰治』参照。


日本文学の碩学を前にして、まことに僭越な発言をして来たものだ。僕は未だに僕の見解が正しいと、一徹に信じている。





詩集/『時』/中尾照代




中尾照代さんが、この春に詩集を上梓された。詩集は二部構成になっており、読み応えのある詩が約二百二十篇収録されている。装丁は限りなく瀟洒にまとめられていて、表紙と見返しに配されている浅緑の色調は、著者の控えめな心情を彷彿とさせてくれる。


本詩集は私家版であるが、目次も奥付も附帯されていない。どうやら目次は作者の意向で、最初から省略するつもりでいたらしい。


そのようなことはさて置き、数々の詩篇がテーマに応じて躍動しているので、読者を惹きつける魅力を十分に秘めている。また、詩を一篇、二篇と読み進めていくうちに、それぞれの作品が、バラエティー溢れる独自の手法で描かれていることに気づかされる。


今、中尾照代さんは詩集『時』を携えて、現代詩壇へ清新な息吹を投げかけられた。


他者を「愛すること」。この深みのある愛の原点を座右の銘に、中尾照代さんは昨日も、今日も、そして明日も、詩を愛する如く、牧師夫人として世界中の人々に慈しみの手を差し伸べられている。このような彼女の真摯な姿勢から、詩集『時』は生まれたのである。


 


 



 


いさんで開けたら


その中に


きれいに並んだたくさんの虫がいて


それが次第に


棘のついた棍棒になり


氷石になり


毒針になって


私に飛びかかって来た


 


その怪物はみるみる巨大化して


私の胸をめった打ちにし


私の頭をズタズタにして


地面にたたきつけた


もう立ち上がれないほどに


 


親しい者から贈られた


紙切れの中にいた


恐ろしい怪物


 


 


 


キュウリ


 


噛じるキューリよ


おゆるしください


 


体のためでも


舌のためでもなく


ただ胸のにがさを


なだめるために


 


涙をふりかけ


噛じるキューリよ


私の非礼をおゆるし下さい


腹に着くまで忍んで下さい


 


 


 



深刻な顔をして


一人道を急ぐ犬に出会った


難事にぶつかった時の


人間の顔つきそっくりだった


 


どうしたの


どこへ行くの


思わず振り返って声をかけたが


犬はどんどん行ってしまった


 


そうだよなあ


人生にはいろいろあるんだよなぁ


見上げた空の


顔色が少し悪かった





2011年5月1日日曜日

祈りのリクエスト




江美子のために祈ってください。彼女は午後8時から翌朝の8時まで12時間、星を戴いて毎晩仕事にいそしみます。特に週末は疲れて帰って来ます。


従いまして、教会には殆どいけません。僕が闘病者でなかったら、江美子の仕事量が三分の一に軽減されます。


ハレルヤ、くっそう、ハレルヤ、くっそう、歯を食いしばり、イエス様と共に歩む毎日が続く。


 





天国




僕よりも何百倍もの信仰があっても、イエス様に癒されもせず殉教していく者がいる。


僕は甘い。永遠の命、天国を見上げて生きようではないか!





罪人




イエス様の癒しを信じていても、時たま焦りが生じる。一生、右半身不随だったらどうしょう。


中々受け入れがたい現実。


元気なうちはいいが、歳をとったらどうすれば良いのか分からない。


苦悩を心に秘めて、生きて行くしかない。


受け入れたくない現実。僕は弱い。


僕は、ものすごくひ弱な罪人だ。





ジャワ・カレー




小学生の頃、今は亡き父と二人で、大阪から京阪電車に乗って、京都の神社仏閣巡りをするのが楽しみだった。


毎回、京都で夕食を済ませてから帰阪することになっていたので、父はよく、四条川原町にあったカレー料理の専門店『ジャワ』に僕を連れて行ってくれた。


このレストランにはカレーライスのフルコース・メニューがあって、前菜とスープの次に魚料理がサーブされる。その後で、いよいよメインのカレーライスの登場となる。


コースは四段階あって、父はいつも下から二番目の八百円のコースを注文した。僕はカレーといえばインドだと思っていたので、ジャワ・カレーといわれてもしっくりこなかった。


だが、それ以来、父と一緒に何回かこのレストランに通うようになった。それは言うまでもなく、『ジャワ』のカレーの味にすっかり魅了されてしまったからだ。最初に食べたカレーがあまりにも旨かったので、ぼくは本当に頬っぺたが落ちてしまうのではないかと心配したぐらいである。


それから何年か経って、ハウス・ジャワカレーのCMがテレビに流れるようになった。京都の『ジャワ』とはすっかり疎遠になってしまっていたが、今度は母が、家庭でジャワ・カレーを作るようになった。母が作るジャワ・カレーの中身は、入念に炒めた狐色の玉葱をふんだんに使い、カレー用の肉の代わりに、挽肉がどっさりと入っている。


だしの良く効いた和風ジャワ・カレーは、とっておきのおふくろの味なのである。





2011年4月30日土曜日

風 景 ─ 純銀もざいく ─




─ 純銀もざいく ─


山村暮鳥


 


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


かすかなるむぎぶえ


いちめんのなのはな


 


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


ひばりのおしゃべり


いちめんのなのはな


 


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


やめるはひるのつき


いちめんのなのはな


 


ひたすらに「いちめんのなのはな」を連ねながら、状況が更に鮮明に浮かび上がるように、それぞれの連で一行の写実が挿入されている。この技巧は単なる風景の描出ではなく、最後の連で作者の心情を印象付けるための役割を果たしている。 


客観的に眺めた、長閑な、一面の菜の花畑が目の前に広がっている。そして空には、病める昼の月がある。この「やめるはひるのつき」であるが、実は隠喩であって、傷心の暮鳥自身のことを示している。


この麗らかな風景と、病み疲れている暮鳥との対比を、「いちめんのなのはな」は小波のように連なって詩全体を表白する。そして暮鳥の病める魂を無窮の春陽の中に閉じ込めてしまったのである。


山村暮鳥は貧しい家庭に育ち、明治三十五年(一九〇二)、十九歳の時に洗礼を受けている。翌年には神学校に入学して、卒業後はカソリックの伝道師となって活躍するが、病身ゆえに、四十一歳の折りに急性腸炎をおこして永眠した。


 





2011年4月28日木曜日

言葉の万華鏡




中国語講座


 


中国語で歩くとは何と言うのでしょう。


 


【正解】 走


 


同じく、トイレット・ペーパー、キャリア・ウーマン、ニュースは何と言うのでしょう。


 


【正解】 手紙   女強人   新聞





名前




リサのボーイフレンドの名前、何だったかなぁ。


チャビン、シビン、カビン、あっ、思い出した。


ケビンだ。





サンドイッチ




パパとママが左右から、Joyの顔を挟んでサンドイッチ・キッス


パパとママが左右から、Joyの身体を抱きしめてサンドイッチ・ハグ


Joyが善い行いをしたら、Joyの感性に敬意を表してサンドイッチ拍手


お昼寝の際に、川の字になってサンドイッチ・リバー


時折パパが真ん中に寝るので小の字になる


でも、言うことを聞かない時には、パパもママもピリリと辛い


だってサンドイッチは、マスタードが味を引き立てる


 





2011年4月27日水曜日

二流国への大門




アメリカに移民して来た者は、ドイツ人であれば教会を建て、イタリヤ人は酒場作り、日本人は学校を建てる。そのように語っているのは帰米二世の作家、山城正雄さんである。日本人は学校を建てるというのは、日本語学校のことだ。


ミツワのフードコートで、7年前に耳にした事である。アラフォーの女性が二人で話をしていた。僕は話を聞くつもりはなかったが、自然と話の内容が聞こえて来た。


「うちの子供たちは、国際人に育ってもらいたいから、英語だけを喋れたらいいわ」


即ち、日本語は必要ないと言うのである。


巷でも、教会の子供を持つ親の間でも、アメリカは英語で勝負、日本語など必要はありません。と言う意見が多数であった。


僕はがっかりとした。世界中どこの国でも、母国語を疎かにしている国は無い。近頃の日本人は、日本人のプライドを捨てたコンプレックスの塊だ。


現地の日本語学校に、僕は苦言を呈す。先ず、日本語を習得する意義について、保護者と児童を交えて、徹底的に話し合うことである。現地の日本語学校は厳しさが足りない。(厳しくすると生徒が学校を辞める。学校の運営が成り立たない。)


ある日本語学校は、デイケアー・センターと変わらない学校がある。授業中に騒いでも先生が止めきれられない。日本人の学力低下は、正しく二流国への大門だ!


 


 


 


 





絶望




「私は陰鬱の中でこの世を愛した。なぜならば、私はわが内に潜む陰鬱を愛していたから」。


これは不安と絶望の哲人、キェルケゴールの日記につづられている一文だ。


日本のある哲学者が、キェルケゴールの「陰鬱」の心境を察して、病的な傾向にあると論じていましたが、果たしてそうなのでしょうか。 


僕は神経症やうつ病に40年間も苦しまされていますが、近ごろは「安心して不安になれる」のだ。苦悩と絶望の日々を体験し続けていると、ふと、悟りの様な声が聞こえてくる。


晩年のキェルケゴールは、人間が人間らしく生きていくためには、絶望の境地に立たされることが、必要であると述べている。そのために人間は一度、死の問題と真剣に取り組むべきであるとも語っている。


今、人生に絶望して、死を考えている人は、すでに人生の苦悶を実践されているのだ。真の幸せは、安らぎのなかに存在していません。むしろ絶望の境地に芽生えてくるものなのだ。


 





2011年4月26日火曜日

転移も恵み




イースターの日に、3ヶ月ぶりに教会へ行きました。信徒の皆さんと、久し振りに楽しいひと時を過ごしました。改めてイエス様は、今生きておられると確信致しました。


僕の癌は甲状腺に端を発し、検査の結果、脳、首筋のリンパ、肺に転移していました。三ヶ月前の入院の折、新たに骨に転移していたことが分かりました。


転移も恵み、イエス様の愛に触れる時。イエス様は、僕をどのように癒してくださるのか楽しみだ。ハレルヤ!





2011年4月25日月曜日

鬼の目にも涙




僕には、これと言った趣味がない。趣味があれば楽しい。外に出て行くとしても、一人だけでは出て行けない。


コミュニティーのプールへ行くのも、YMCAに行くにも一人では行けない。誰かの手を煩わらわせずに、一人で行きたい。


江美子が電動車椅子を買えば、近くであれば一人で出て行くことが出来ると言う。しかし小型の自動車が買えるほど高い。


江美子が呟いた「メデキャルで全額カバーするはず」


僕は大きい声を上げた。


「10,000ドルするよ!」


江美子が忙しくて、未だに購入の手続きをしていない。5月になれば、江美子の仕事の量が減る。それまでお預けだ。


話は変わるが、今日、江美子と2分間位立ったまま抱擁をした。江美子は涙ぐんでいた。僕は鬼の目にも涙と思った。





リブアイ・ステーキ




またもやステーキの話題。『The Galley』のステーキは、日本の肉ように柔らかくてジューシーだ。


僕のお薦めは、一つしかない。リブアイ・ステーキが抜群に美味しい。喜色満面になるほどに味が良い。踊りたくなるほど美味である。





2011年4月24日日曜日

子供の読書と記憶力




若者たちの活字離れが顕著になって久しいが、米国では読書が勉学の基礎を形成しているとの識見が非常に強い。従って教師が課題に挙げる書物や、それらに基づいた書籍を読みこなす技術と読解力を、まず、身につけていかなければならない。そのためには乳幼児期からの読み聞かせや、読書の習慣が肝要なのである。 


育児書や子供の教育に関する本を読んでいると、乳児期からの読み聞かせの重要性を説いている項目が必ずある。また、テレビや雑誌などで、時おり見掛ける教育コンサルタントの専門家も、読み聞かせの習慣と読書好きな子供に育てることが、いかに将来の学業に有益であるかを力説している。


 ある声楽家がテレビで語っていたことであるが、オーケストラをバックにして歌えることは素晴らしいことであるが、例えば病院にお見舞いに出向いて、病床生活を続けている患者のためにアカペラで独唱したりすると、大層感激されて、その歌声がいつまでも患者の胸の奥深くに残るという。


読み聞かせの場合も同じであると思う。映画館の大画面で、音響効果や美しいメロディーが流れるアニメを鑑賞すれば、誰もが感動する。けれども、自分ひとりだけのために母親が語るモノクロの世界は、想像力を最大限に引き上げて聞き入ることになる。これほどスペクタルな環境は他にはない。


やがて文字が読めるようになれば、必ず音読する習慣をつけることである。それから、当世は低俗で有害な書物が氾濫している世の中である。書籍は慎重に選ぶことが肝心だ。自信がなければ専門家に相談されると良い。


筆者の方針は、短歌、俳句、聖句などを暗誦させた後で、音読の訓練を繰り返すことである。イギリスやここアメリカでも、シェークスピアのソネットを諳んじることは教養であり、感性を錬磨するために用いられている。


幼い時分から記憶の回路を構築させておくと、小学校に入学する頃には、子供は益々やる気を出してくる。こうなれば、もうしめたものである。


2000年の『子供読書年』から、「ブックスタート」という新しい試みが始まって以来、絵本の読み聞かせがブームとなっている。


この「ブックスタート」とは、イギリスで始まった「正しい読書」を奨励する運動で、乳幼児のための絵本と読み聞かせについて、詳しくまとめられている「ブックスター・パック」を、図書の専門家が一人ひとりの保護者に手渡しながら、アドバイスを施していくことを目的としている。


学生時代に、「読書の虫」と呼ばれている同級生がいた。彼は暇さえあれば読書をしていたので、いろんな分野において話題が豊富であった。ある日、一冊の本をめぐって、ぼくは彼と議論を戦わしたのであるが、彼は本の内容に関しては比較的良く理解しているのであるが、彼自身のものの見方や意見、そして思考力が希薄であった。ましてや想像力を膨らました斬新な所見ともなれば皆無であった。彼は活字をいち速く読みとりながら、筋書きを暗記する技術に熟達しているが、自分で考える力や想像力においては明らかに劣っていたのである。


さて、乳幼児期の読書の問題であるが、絵本などの読み聞かせは5、6歳ぐらいまでで一応打ち切って、それ以上の年齢になれば、なるべく絵の少ない本を読み聞かせるようにしたい。理由は、あまり絵にばかり頼りすぎると、その状況を想像させる思考力が解発されにくいからである。或は、絵本を読み聞かせる場合、この物語が次の頁ではどの様な展開になっているのか、頁を捲る前にしばらく間をおいて考えさせてみることが肝要である。また、親の見解も語り聞かせながら、意見交換を楽しむひと時をもつことは非常に有益である。


読書というものは読む速さを競ったり、読んだ本の数で優劣を定めたりするものではない。ショウペンハウェルは、読書とは他人の頭で考えることであると述べているが、自分の頭で考えることのできる人間へと成長するためには、前文の「読書の虫」のような読書家には、絶対にならないように気をつけてもらいたい。


また、絵本や児童書を読み聞かせる場合に、語り手となる母親もしくは父親の、朗読する技術と表現力が豊かでなくてはならない。例えば、登場人物によって声色を変えてみたり、文章に抑揚をつけて語ることである。


ぼくが幼い頃に、母親から絵本を読み聞かせてもらった記憶は殆んどない。絵本の寡少な時代でもなかったと思うのであるが、心覚えがあることは、一寸した挿絵のついた「イソップ」を何度も繰り返して読み聞かせてくれたことである。また、寝入り際に暗い部屋の中で語ってくれた母親の昔話は、固唾を呑んで聞き入ったものである。


或は、子供の頃に家族や友達たちと一緒に、何気なしに口ずさんだ「唱歌」の追懐に時おりひたることがあるが、これもやはりアカペラで歌っているので印象深く心に残っているのかも知れない。


出来れば物語を語る母親は、本を読まないでストーリーを予め記憶しておくか、即興で話しを組み立てられるぐらいの心構えであってほしい。即興が苦手であれば、前もって粗筋を用意しておけばよい。


従って、私たちの信仰生活も同じである。聖書の音読と聖句を暗誦することによって、大いなる恵みが得られるのである。


 





2011年4月23日土曜日

午後の静物




土曜日


静かな昼下がり


青空とグリーンと白


鳥たちは遊び 季節の花が美しい


まどろむ気候の中で


最近の僕はのんびりとやっているのです


 


僕には分かっている


汚染された灰色の空も


そして虹色の海も


僕を抹殺しようとしたのだ


 


病室の窓からいつも見ていた


あの


空よりも大きい巨大な拒絶の白壁が


きょうも僕のカラダの中を覗き込んでいる


ぶちた壁面は


どす黒い腫瘍を剥きだして嘲笑い


必死の思いで逃亡する僕を


わしづかむ


 


僕は逃げた


 


逃げても 逃げても


過ぎ去った空隙をぶち破って


蒼いシルエットが


すさまじい勢いで僕を吹き飛ばす


 


僕のカラダは


かたい塊となって


静止したまま


もう どのくらい生き続けたのだろう


 





2011年4月22日金曜日

みどり色の蛇




みどり色の蛇


大手拓次


 


仮面のいただきをこえて


そのうねうねしたからだをのばしてはふ


みどり色のふとい蛇よ、


その腹には春の情感のうろこが


らんらんと金にもえている。


みどり色の蛇よ、


ねんばりしたその執着を路ばたにうえながら、


ひとあし ひとあし


春の肌にはひつていく。


うれひに満ちた春の肌は


あらゆる芬香にゆたゆたと波をうつている。


みどり色の蛇よ、


白い柩のゆめをすてて、


かなしみにあふれた春のまぶたへ


つよい恋をおくれ、


そのみどりのからだがやぶれるまで。


みどり色の蛇よ、


いんいんとなる恋のうづまく瞳は


かぎりなく美の生立(おひたち)をときしめす。


その歯で咬め、


その舌で刺せ、


その光ある尾で打て、


その腹で紅金の焰を焚け、


春のまるまるした肌へ


永遠を産む毒液をそそぎこめ。


みどり色の蛇よ、


そしてお前も


春とともに死の前にひざまづけ。


 


 


大手拓次は、大正期に活躍した詩人であるが、四十六歳(昭和九年)で歿するまで、一冊も詩集を上梓しなかった。


翌年、処女詩集『藍色の墓』を自費出版。編集を逸見 亨が担当。序文に北原白秋。跋文に萩原朔太郎が寄稿した。 


大正期の詩人は、定職には就かないで、自由無頼な起臥(きが)を過ごしていたが、拓次は東京ライオン歯磨本舗の広告部に勤める忠実なサラリーマンであった。


原 子朗は、拓次の口語象徴詩の手法はボードレール『悪の華』へのフランス語による惑溺(わくでき)であった。と述べている。


『みどり色の蛇』を閲読してみると、ボードレールからの影響を色濃く受けていることが理解できる。従って病弱であった拓次は、生と死の交錯する妖しくて幻想的な世界に、自らのイマジネーションを昇華させる以前に、ボードレールの『悪の華』を徹底的に瞠目(どうもく)していたのである。


やがて拓次は今まで培ってきた抒情的妄想を劫火の中へと葬り、フランス象徴詩を道標として開花させた。


その代表作品の一つである『みどり色の蛇』は、真にみごとな詩であると思う。





身だしなみ




真夜中に、B子のアパートが火事になった。アパートの住民は皆避難した。B子は熟睡しているのかと住民は心配した。B子の声が聞こえる。やけに落ち着いている。


「ちょっと待ってください。今行きます!」


刻々と時間が経つ。住民たちは気が気でない。B子が火の粉にまみれながら外に出た。


「化粧をしていたもので」


 


B子は人と会う時、必ず厚化粧をする。今迄に化粧をせずに人前に出たことがない。


 


 





2011年4月21日木曜日

至極の酒処




至上の串焼き、激うまの極致、やみつき必至。豚モツの串焼き『焼とん・北新地たゆたゆ』。 


一串160円前後、焼鳥もある。豚の刺身が食べられる店、『焼とん・北新地たゆたゆ』。


大阪市北区堂島1-4-8 広ビル1階   06‐6341‐1810   定休日 日曜





屍(しかばね)




僕は闇夜に浮かんだ黒い星


生かされるのか 失命するのか判らない


ヘドロの様な血を吐き 汚染された咳をして


きょうもあしたも


飼い殺しにされた 屍を見るがよい





2011年4月19日火曜日

今、僕は生きている




脳梗塞で倒れて半身不随と言語障害、おまけに癌が4ヶ所から発見された。余命半年と宣告を受けた時、日頃、弱虫な僕は不思議と怖くはなかった。


脳と首の大手術に臨む際、心が平安であった。


イエス様の癒しを信じているから、例え死んでもイエス様の許に行けることを知てるから、僕は御心のままに導いてくださいと祈った。


あらゆる艱難を乗り越えて、祈って、祈って、倒れてから2年と6ヶ月が経つ今、僕は生きている。イエス様に生かされているのだ。 


三位一体の神様に感謝したい。





浪速の寿司




大阪すしの名店、船場・淡路町の『吉野鯗』(よしのすし)。箱寿司、棒寿司、蒸し寿司。僕はこの店の箱寿司が逸品だと思う。浪速のきずしも絶品。


浪速の寿司、『吉野鯗』へおいでやす。





2011年4月18日月曜日

エリック・ドルフィー




僕が中学生の頃、ポール・モーリアが好きだった。高校に入学すると、ブラス・ロックにのめりこんでいった。間もなくして、ジャズに目覚めた。


最初に買ったジャズのレコードは、マイルス・デイビスだった。18歳の時に中古のクラリネットを購入した。19歳なってテナー・サックスを購入。


アメリカに渡って、Pawnshop(質屋)で中古のアメセル(サックス)を見つけた。チャ―リ・パーカーが使っていた、同じタイプのキングのアルト・サックスを、やはりPawnshopで見つけた。僕の記憶では3000ドル。


僕が好きなジャズ・ミュージシャンを5人選べと言われると、先ず、キャノンボール・アダレイ(アルト・サックス)、エリック・ドルフィー(バス・クラリネット)、マイルス・デイビス(トランペット)、ジョー・モレロ(ドラム)、ベティー・カーター(ヴォーカル)。


今回は、エリック・ドルフィーの名演奏をご披露致しましょう。







セーブ・マネー




僕がアメリカに渡って、一年ほどたってからガール・フレンドに巡り会った。同じアパートに住んでいた女性で、父は中国人、母はイギリス人のハーフである。


週末に、シィーナとデパートに赴いた際、スカーフ売り場の所で彼女は立ち止った。彼女が躊躇しているのに、僕はいち早く気がついた。シィーナは水玉のスカーフを気に入ったらしい。僕はシィーナにスカーフを買ってあげた。


シィーナが突然、笑顔で僕に飛びついて来て、僕のほおにキスをした。日本男児としては、公衆の面前で女性にキスをされる事は、日本の国では皆無と言ってよいだろう。僕の顔はすっかり桜色に染まってしまった。


或る時、管理人のスーザンに言われた。1ベッド・ルームに二人で住むと、セーブ・マネーになる。僕たちは共にシングル・ルームで暮らしていた。


シングル250ドル、1ベッド350ドル、二人で住めば確かにセーブ・マネーになる。シィーナは住む気があるが、僕は断った。


シィーナと映画を観に行った日に、僕たちは夜遅くに帰宅した。僕は彼女の部屋まで送って行った。シィーナは部屋の明りをつけた。泥棒が入った形跡がある。シィーナはベソをかき取り乱している。


挙句の果ては僕に八つ当たりだ。「一緒に住んでいたら、泥棒には入られなかったわ」


シィーナは、怖い、気持ち悪いと言って、僕の部屋に泊ることになった。


シィーナが呟いた「二人でシングルに住むと、更にセーブ・マネーよねぇ」





2011年4月17日日曜日

不安




本日、にわかに不安感に襲われた。いろんな思いが込みやげてくる。この先、生きるべきか、死ぬべきか。


イエス様は、心に平安と喜びを与えようとしているのに、神の御心ではないと祈ったら、不安がたちどころに消散した。





京の昼餉(ひるげ)




僕が小学校中学年から、青年期にかけて京都の街を散策するのが好きであった。小学生の頃、父とよく京都へ赴いた。昼時になると平安神宮の『六盛』。円山公園の『いもぼう』南禅寺の『順正』に足を向けた。


昼食はいずれかで頂いた。最も多く行きつめたのは『六盛』であった。名物の手おけ弁当を食した。『いもぼう』では、いもぼう御膳。『順正』では湯豆腐と天ぷらを頂いた。


以来、友達と京都に足を運んでも、ガール・フレンドと出向いても、いずれかで昼食を味わった。


目をつむると、『六盛』に向かう道程で、平安神宮の朱色の大きな鳥居が、見えたような気がした。





2011年4月16日土曜日




看護師のAは、病院の隣にある看護寮に住んでいた。夕刻の交代まで少し時間があったので、


布団を敷かずに畳の上で転寝(うたたね)をした。 


寝過ごしに気がついたAは、直ちに着替えて化粧もせずに飛び出して行った。息を切らして同僚に謝るA。


同僚たちはAの顔を見るなり、笑い転げた。Aは鏡を見た。頬っぺたに畳の痕がべったりと付いていた。





文学散歩




テレビを見ていたら、歴史を散策する番組が始まっていた。舞台になる所は兵庫県西宮市。僕はこの番組見ながら、懐かしさがこみ上げてきた。


と言うのは、僕が二十代半ばの頃に、関西を中心に文学散歩の講師をしていたからだ。僕は拡声器を肩にかにかけて、要所、要所で立ち止まっては解説をした。参加者は200人近くいた。


一番思い出深いのは、『芥川龍之介、羅生門再考』と題して、洛南(京都)の街を歩いたことである。散歩が終わってから料亭で新年会が始まった。


現在は、大阪文学振興会事務局長の横井三保さんが、関西文学散歩の会の代表を務める。三保さんは僕が編集者時代の先輩。大阪市立五条小学校の先輩でもある。


『大阪文学散歩?』(関西書院)は、僕と三保さんの(その他の講師も含む)共著でもある。





2011年4月14日木曜日

どちらが?




リンゴとイチゴ どちらが赤いだろうか


ライオンとトラ どちらが強いだろうか


バラとユリ どちらが美しいだろうか


向かいのオヤジと隣のオヤジ どちらが頑固だろうか


隣町のスーパーと地元のスーパー どちらが安いだろうか


吉本興業と松竹芸能 どちらが面白いだろうか


帝国ホテルとホテルオークラ どちらが高級だろうか


僕の嫁はんと近所の嫁はん どちらがはんなりとして綺麗だろうか





滋賀の都




滋賀の都は隠れた観覧の地。名所、旧跡が数多くある。京都、奈良と違って、一味違った侘び寂を体感できる。


守山市に江戸後期の佇まい中で、食事が出来る所がある。その名も『門前茶屋・かたたや』


寄せ鍋と鹿児島産ジャポーン鶏の、料理の数々が美味い。関西には美味しくて、廉価なレストランが数多である。





メランコリーによせて




おまえからのがれて


ぼくはぶどう酒と友らのもとへ走った


おまえの暗い目つきがこわかったから


恋の思いにゆすられ楽器の音をきいて


不孝者のぼくはおまえを忘れたのだ


 


けれどもおまえは


だまってぼくのあとについてきて


ぼくがやけに飲みちらす酒のなかにいた


うちつづく愛の夜のむし暑さのなかにもいた


ぼくがおまえにあびせかけた


あざけりのなかにまでいたのだ


 


いま おまえは


さすらいの旅からかえってきた


このぼくのへとへとに疲れたからだを


さわやかにすがすがしくしてくれる


この頭をおまえのひざに抱いてくれる


ぼくのすべての惑いは


おまえにもどるための手だてだったのだ


 


 


メランコリーによせて


ヘルマン・ヘッセ/石丸静雄 訳


 


十四歳の時、神経衰弱に陥り、自殺を図って失敗に終わったヘッセは、マウルブロンの神学校の寄宿舎から脱走して、僅か半年で退学してしまった。


「詩人になるか、さもなければどんなものにもなりたくない」と言う、美しくも至純な観念を抱いて労働者となったヘッセは、その頃から独学で文学の勉強に取り組んだ。


その後、二度の離婚を体験したヘッセであるが、最初の妻の精神病悪化と、二度目の妻からは変人扱いされた為に心労が絶えなかった。幸いにも三度目の結婚によって、ヘッセは安定した家庭を迎えることができた。


詩を鑑賞するにあたって、作者の生涯を十分に咀嚼していると非常に理解しやすい。それだけではない、詩人の生い立ちや性格、或いは病歴に至るまで知り尽くしていると、解読が容易になってくる。


ヘッセの性質は内向的な分裂質の性格が基本となり、壮年期に鬱病から来る不安神経症に陥っている。『メランコリーによせて』は、寛解してから四十代に書かれた詩であると思われる。


翻訳を手掛けた石丸静雄は「ヘッセはその病気に罹って、楽しんでいる。メランコリーのない日は、一日一日があじきなかった」と鑑賞している。


私はヘッセの詩も、石丸の訳と解説も、実に見事だと思っている。ヘッセは自己の二元性の相剋に苦しみながら、精神病院に入院してユングの診断を受けている。だが、善と悪の二つの魂に対する苦悩は、古くから文学者や哲学者の永遠のテーマとして今日まで受け継がれている。


例えば新約聖書の『ローマ人への手紙』に於いて、パウロの二重性の煩悶が描かれているが、ドストエフスキーやゲーテ、夏目漱石らも、自我の二つの魂について苦悶している作品がある。


それでは次に、僭越ながら私が書いた『不安』を主題にした詩の、後半部分を紹介させていただく。


 


不安感がなくなれば


なおさら不安になる


 


俺は死ぬまで不安


死んでからも不安


 


俺は祈りはじめた


パラダイスで


安心して不安にすごしたい


不安に


 


この詩の前半では、一刻も早く不安感から解放されて、自由になりたいと叫んでいるのであるが、やがて不安は掛け替えのない友となり、行く末に不安は、安らぎの礎となってしまう。石丸静雄の解題が、そのままこの『不安』に適応してしまうのである。私はこの手法をヘルマン・ヘッセからではなく、アンリ・ミショーから習得している。


さて、不具で孤独のヘッセではあったが、やがてメランコリーは彼にとって心のよりどころとなり、憂鬱者の内面のゆとりを暗示させていた。


 


 


 


 





2011年4月13日水曜日

ツアー




僕のツアー・カンパニーが、大リーグ観戦ツアーを1990年に最初に催行した。ドジャース・スタジアムとエンジェルス・スタジアム。往時は日本からの観光客も大勢いて、ドル箱ツアーであった。


大手の旅行社から予約が殺到した。バスの手配とチケットの用意でおおわらわだった。笑いが止まらないということは、正しくこれだと思った。


笑いが止まらないのは、つかの間の夢。1995年に野茂英雄がドジャースに入団以来、他社が、ぞくぞくと大リーグ観戦ツアーに参入しだした。


僕は他社に負けないように、新しいツアーの開発に余念がなかった。ハリウッド・スターのタマゴ達にエスコートされながら、ヘリコプターに乗ってディナーを楽しむツアー。


ゴスペル結婚式、ショットガン射撃ツアー、ヒドゥンバレー・スターズ・ホームツアー等。いずれのツアーもヒットはしなかった。


1996年に僕のツアー・カンパニーが、終焉を迎えた。


 


 





そば処笹喜




Messagepart


京都で用事を済ましての帰り道、ふらりと立ち寄った蕎麦屋で、ニシンそばを頂いた。僕は女将さんに申し出た。


「こんなに美味しい、おそばを食べたのは、初めてです」


先ず、ダシが美味しい、秘伝のだしだ。五臓六腑しみわたる、はんなりとしたダシの味は、今でも覚えている。今度帰国したら必ず行くぞ!


『そば処笹喜』は、正にミラクルのそばの味だ。


京都市左京区高野車地139    075‐712‐7879    定休日・水曜





2011年4月11日月曜日

青と蒼




黒い流れ星が僕の眼(まなこ)にほとばしった


紅(くれない)の心はふさぎ 寂寥(せきりょう)を道ずれに


僕は益々輝きを増す


過重な青が暗闇に潜む時


僕は自分の体の中に 混迷してしまうのだ


言語サラダの蒼がまばゆい


僕の心は血色に染まる


 


足かせの青と眩耀(げんよう)の蒼


ウルトラ・マリンの螺旋階段


僕は生きるほどに


苦しみ


切なくなるほどに


苦しむ





何に使おうかな




病後、初めてお金になる仕事が舞い降りた。俳句の英訳の仕事である。僕は俳句の英訳は初めてだ。


依頼主から、意味が通じたら良いのですと言われて、僕はその仕事を引き受けることにした。


稿料が入ったら、何に使おうかな……





2011年4月10日日曜日

出世頭




修学旅行の宿で、一緒に煙草を吸っているところを先生に見つかり、一晩中正座をさせられた龍介は、事業に成功して世界中を股にかけて活躍している。


幼馴染の武史君はドイツに留学して、名の知れた音楽家になりつつある。


一緒に珠算塾へ通っていた健一は、親父の後を継いで政治家となるべく、大臣の秘書となった。 


高校一年の時、隣のクラスにいたイチビリの具志堅は、オリンピックのゴールドメダリスト。


野球部のキャプテンで、体の大きいあばた面の藤沢は、「俺は今、○○組のナンバー・ツーや」ドスの利いた声で語った。


一番仲の良かった慶三は、関西一円にたこ焼き屋のチェーン店を7軒も開店させた。


今、僕の前でカップメンを啜っている匿名希望君は、詳しい経緯はまだ語ってくれないが、一家離散、夜逃げして、今どや街で暮らしている。こいつ、暇なせいか話が良く弾む。


「おまえ、アメリカくんだりまで行って、まだ詩なんか書いてんの。物好きやのぅー」


相変わらず口だけは達者だ。みんな偉くなって忙しい、忙しいと言ってるけど、どん底の匿名希望君は、年中日曜日。


「おまえ、試練を堪え忍べよ。試練に遭ったことはええことなんや」 


一年後、匿名希望君から丁寧な手紙が届いた。「その節はギデオンの新約聖書有り難う。あれから教会へ通うようになり、悔い改めてイエス様を受け入れました」


僕は早速返事を書いた。「君が出世頭や!」





福喜鮨




梅田(大阪)に出て、少しかしこまった時に、利用する鮨屋がある。僕が日本いた頃、よく利用した鮨屋のベスト4に入る。


新阪急ホテル地下1階、『福喜鮨』。店長おすすめのにぎりずし、赤だし付きがお薦め。大阪にいて、江戸前のにぎりが味わえる。


穴子、小鯛、鯖、各棒鮨が絶品。


大阪新阪急ホテル・地下1階『福喜鮨』 大阪市北区芝田?-1-35  06-6372-5101





『えぼし』




きょう、病院の帰りに『えぼし』(カテゴリー食「食べてみなはれ」)で食事をした。僕が行くとオーナーのマイクさんが、何時も厨房から出て来て挨拶をしてくださる。


ドクターから秋頃に食事制限をして、再びラジエーション治療を行いますと言われた。1月にラジエーション治療を行った際に、絶大なる効果をもたらしたという。


僕は嬉しくなって、『えぼし』のチャンポンを食べたくなった。





2011年4月9日土曜日

ドラマの題名




NHKのドラマの題名、何だったかなぁ。


7でもない、6でもない、あっ、思い出した。江(5)だ。





血税




日本のニユースをテレビで見ていると、公務員(政治家)が会議中の映像が映し出される。テーブルの前には、一人ずつお茶のペット・ボトルが置かれている。


半分飲む者、殆ど飲まない人がいる。もったいない。一人100円として、国民の血税の無駄使いだ。


大きめのピッチャーか、昔ながらのヤカンに入れるかして、コーナー作りセルフ・サービスにするとよい。


大震災が起こり、節電と叫ばれて久しいが、避難所にいる人々は水不足が深刻だ。


テレビのニユースは氷山の一角である。もったいない、税金の無駄使いだ。





2011年4月8日金曜日

巨大なブリトー




4年ほど前に、リトル東京・タワーに住んでいるお婆ちゃんに教えてもらった。リトル東京から車で東へ15分。ランチタイムになると、長蛇の列ができる。

メキシカン・レストラン『El Tepeyac Cafe』。僕はこの店で始めてブリトーを食べた時、ブリトーの概念を履がいされてしまった。お薦めは「Manuel Burrito」マイルドでジューシーな味わい。


Messagepart





知っているだろうか




女が女でなくなる時 女はそれを知っているだろうか


犬がニャーと鳴き猫がワンと鳴く時 ポチとタマはそれを知っているだろうか


野菜が果物で果物が野菜に変わる時 バナナと白菜はそれを知っているだろうか


英語がスワヒリ語で中国語がスペイン語の時 通訳者はそれを知っているだろうか


僕が僕でなくなる時 僕も私も俺もそれを知っているだろうか





Enterprise Fish Co




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サンタモニカのビーチサイドあって、雰囲気抜群のシーフード・レストラン。
チャブロイラー・チャコールで焼く、メイン・ライブ・ロブスターが有名。


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日本から来た、お客さんを案内するのに適している。
ケイジャン風ジャンバラヤ、コーンブレッド付きは、僕のお薦め。


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アサリのワイン蒸しが、ニンニクが効いていて中々美味い。


Enterprise Fish Coのホームページ・メニューを参考にしてください。





2011年4月7日木曜日

ガンバレ東日本




悲しみは突然やってくる


長閑な風景も消え失せて


愛する人々を亡くした


 


苦しみは突然やってくる


家族は枯葉ように離散し


みんなの幸せを一気に飲み干す


 


どんなにつらくても


あなたの優しさが好き


鷲のように強いあなたが好き


 


どんなにつらくても


あなたは負けないわ


天使のような あなたの笑顔が好き


 


日の丸を掲げて 世界中の友達が応援しているよ


その悔しさをバネに


肥沃な大地を夢見て


さあ 恵み深い海へ帆をはろう


 


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良きバブルの時代




僕はバブル期に、小さな旅行会社を営んでいた。主にツアー業務の仕事だ。個人でLAに来たビジネスマン、もしくは旅行者が対象であった。


僕はキャデラックのリムジンの運転をして、客の要望にこたえるのだ。ある日、日本の不動産屋が、ホテルのフロントを通して予約を入れてきた。


40代後半の男性で、もみあげは長く、背の低いでっぷりとした体躯であった。LAまで、クイーン・エリザベス二世号に乗船してきたという。


僕は市内観光に、不動産屋を案内した。夕刻になって、不動産屋は船の中では、ヨコメシばかりで飽きたので、LAで一番美味しくて、高級な料理屋に案内しろと言われた。


僕はリトル東京の『堀川』の中にある、『料亭堀川』に案内した。僕も一緒に食べた。会計は1,500ドル。


不動産屋をホテルまで送り届けた。リムジンの請求額が550ドル。不動産屋は1,000ドルを差し出すと、「チィプだ、取っておけ」と言った。おまけに近くの貴金属店で、5,000ドルもするローレックスの腕時計を、強引にプレゼントされた。


まだまだバブル全盛期には、景気の良い客がいた。


一例をあげると韓国人の財閥の会長が、僕の会社を利用した。大層サービスが気に入ったらしく、お礼にと、韓国へ遊びに来いと言われた。


コリアン・エアーのファースト・クラスのエアー・チケット2枚と、ロッテ・ホテルのスイート・ルーム4泊(食事つき)をプレゼントされた。





2011年4月6日水曜日

東日本大震災の被災者に捧ぐ




宮沢賢治の詩『雨ニモマケズ』は、最後に「ソウイウモノニワタシハナリタイ」と結んでいます。即ち、賢治が理想としていたモデルとなった人物がいたのです。その人の名前は斎藤宗一郎と言い、賢治の周辺にいた敬虔なクリスチャンであった。(詳しくは『旧ラッパを吹くひつじ』、アゴラ・宮沢賢治参照)


賢治は岩手県花巻町の出身、宮沢賢治・作詞、宇佐元恭一・作曲。『雨ニモマケズ』を被災された人々に捧げます。







アベコベ




空に海があり


海に空があったら


飛行機は航海


船はフライト


 


窓にドアがあり


ドアに窓があったら


泥棒は戸惑う


住人は不便


 


女は男であり


男は女であったら


番台のオヤジは困る


宝塚歌劇団は混乱する


 


地獄は天国にあり


天国は地獄にあったら


罪人は天国に行き


良人は地獄に堕ちる





2011年4月5日火曜日

満開




原稿を執筆している時が、一番充実している。そろそろ、新聞、雑誌に書こうかと思っている。


ブログの記事も、気がついたら70篇以上書きだめをしていた。昔とった杵柄である。


ジャズを聴きながら、執筆をしている際が、闘病の僕が最高に満開になる時だ。


「雨の日も風の日も満開になれ」





Little Next Door




LAにリーズナブルな、フランス料理のレストランがあると聞いて、興味津々足を運んだ。この日は、レストランのテラスで食べた。


僕が食べた料理の中で、最も美味しかったのは、フレンチ・オニオン・スープとムール貝の白ワイン蒸し。


地中海風フランス料理も、探せばまだまだ美味しい物がありそうだ。『Little Next Door』のホームページを参考にしてください。





2011年4月4日月曜日

難しい




数学は算数よりも難しい


子供を産むより育てる方が難しい


政治家になるより農夫漁師なる方が難しい


電卓よりもそろばんの方が難しい


宇宙に行くことよりも人類が平和でいることの方が難しい


嘘をつくことよりも正直でいる方が難しい


死ぬことよりも生きることの方が難しい





本場の焼き肉をご賞味あれ




鶴橋(大阪)は焼き肉の激戦地。焼き肉屋の店先では、呼びこみが盛んだ。初めての人は何処にしょうかと迷う。迷ったら『焼肉・鶴橋・蘭』へ飛び込んでいただきたい。


雰囲気がよく、清潔で、もちろん焼き肉もジューシーで味わい深い。店員さんも親切だ。単品の、焼き肉メニューも充実している。ホルモン・セット1,344円。よろこび・セット2,079円。蘭コース21品、4,000円。


大阪のコリアン・タウンで、本場の焼き肉をご賞味あれ。





食通の社長




日本の大手印刷会社と取引をしたことがある。度々専務が日本からアメリカへ来られる。名刺を見ると米国○○会社の社長と書いてあった。


二ヶ月に一度の割合で、日本から社員と共にやって来る。僕はコーディネートと、各会社へアポイントメントを取る任務を任されていた。


夕刻になって帰りの車の中で、社長は「新井さん、今晩は何処にするかな」と僕に聞く。今夜も何か美味しいものを、食べに行こう言う意味だ。


社長は業界切っての、食通として名がと通っていた。僕は毎晩、社長の舌を満足させるのに大変であった。ある晩、ビバリーヒルズの中華料理店『文記』(もんき)に案内をしたら、社長はえらく気に入れられた。


数ヶ月後に社長が来米された。また、『文記』に行きたいと言う。予約を今から入れなさいと言われた。社長は満漢全席が食べたいと僕に言った。僕は絶句した。


予約を入れる際に、満漢全席は出来るのか、僕はマネジャーに訊ねた。一人前700ドル、5日前から予約要、ミニマム4人、僕も楽しみだった。


当日は山海珍味が並んだ。ツバメの巣、フカヒレ、熊の掌、蛇、象の鼻etc。中国の年代物の酒、タックス、チップを入れると、一人前が1100ドル。


社長もご機嫌ようす、僕はようやく肩の荷が下りた。


 





2011年4月2日土曜日

『縄寿司』と『亀すし』




『亀すし』(紹介済み)は、僕が最も利用した鮨屋。『縄寿司』は2番目。『亀すし』よりも『縄寿司』の方が、安くて量が多い。新鮮なネタばかりで美味しい。


『縄寿司』は『亀すし』の目と鼻の先にある。歩いて45秒。お金の持ち合わせが少ない時に、『縄寿司』の暖簾をくぐる。バンザイ!『縄寿司』。


『縄寿司』


大阪市北区曽根崎2‐14‐1     06‐6312‐9892     定休日・第1・2月曜








神が創造された人間だから


僕の思考は自由だ


僕は人間から脱出できない


僕の心から逃れられない


僕は赤の中の黒の中のブルー


 





片 恋




初めてあなたの手にふれたのは


サンタモニカの海岸通り


陽光にあふれた手つなぎの道は


思い出の彼方でまどろんでいる


 


夏がはじまり


ジャカランダの木の下で佇んでいると


きょうも あなたのことばかりが


洋梨の香りをたずさえて、潮騒のように騒ぎ立つ


海ツバメの羽毛のように身も心もときめいて


ぼくは勢いよく大空へと舞い上がる


 


ああ あなたに会いたい


ぼくの鳩尾(きゅうび)は


晩秋に回廊の柱の陰で朽ち果てた


北風に踏まれる茜葉のように


静かに燃えるだけ


 


青い月の光を帯びて


あなたの愛くるしい仕草は


水煙にかげるナイルの白百合


 


遠くから見つめていると


あなたの甘味な吐息を


ぼくの口許に感じる


 


ああ するとどうだろう


ぼくの胸はいたく張り裂けて


ビオラの弓弦(ゆずる)で


熱く激烈に弾き打たれる





2011年4月1日金曜日

2011年 冬 俳句 1




2010年 冬 俳句 3


 


1. 主に祈る癒してくれと年の瀬に


 


2011年 冬 俳句 1


 



  1. 愛されて癒されてイエスの恵み

  2. 闘病記イエスを愛し冬桜

  3. 主にありて兄弟姉妹祈りの輪

  4. 主の愛がぎっしり詰まったお弁当

  5. 春近し花を見たくて散歩する

  6. 雨の日も風の日も満開になれ

  7. 癌の人ガンで雁をガンガン撃っている


 





愛くるしい




今日、ジョイと江美子と三人で、病院へ行って来た。帰りにチャイナタウンに寄って、飲茶を食べた。


久し振りに三人で出掛けたのが嬉しいかと見えて、ジョイが飛んだり跳ねたりする姿を、江美子と二人で眺めていた。


ジョイの満面の笑顔が、愛くるしく思えた。


 





2011年3月31日木曜日

サマーズ氏の国




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米国家経済会議(NEC)前委員長のローレンス・サマーズ(写真)米ハーバード大学教授が3月23日、ニューヨークで講演中に「誠に残念ですが、日本は貧しい国になるでしょう」と、陳述をした。


サマーズ氏は、日本の現状を生で見ていない。本当の日本の現状を知りつくしていない。今この時期に、日本は貧しい国になる。あまりにも卑劣な発言。サマーズ氏は経済面ばかりを注視しているように思われる。


経済協力開発機構(OECD)の相対的貧困率よると、最も貧しい国はアメリカである。日本は未曾有の震災によって、最も心の豊かな国になるであろう。


これからの時代は、貧しくても心の豊かさが問われる時代。サマーズ氏の国は、そんな芸当が出来るだろうか。





レストランの紹介記事




僕は21歳の頃から、文芸雑誌に美味しいレストランの紹介記事を執筆していた。主に関西中心だが、この頃からレストラン巡り、食べ歩きが好きだった。


千里中央(大阪)にあった。フランス料理のレストラン、『ビストロ・ジョフラン』がリーズナブルで美味しかった。35年の歳月を経て、検索をしてみたが見つからなかった。


同じく千里中央に、『オスカー』という小さなバーがあった。35年前にオスカー・ピーターソンが来日した時、『オスカー』でライブを開催したのを覚えている。


オスカー・ピーターソンは当時50歳、正に脂の乗りきっている時期、名もない小さなバーで、採算がとれるだろうかと心配した。


東梅田の『瓢亭』も雑誌で紹介をした。詳しくはカテゴリー食『夕霧そば』を参照。


 





夕霧そば




東梅田(大阪)の旭屋書店で本を購入する際、必ず立ち寄って行く蕎麦屋があった。夕霧そばで有名な『瓢亭』


夕霧そばとは、そば粉に柚子の表皮を練り込んだ香り高いそば。人気のそばは、カレーそば、鴨なんば。


大阪名物お初そば、別名梅切りそばも好評。





2011年3月30日水曜日

明治時代の力士の四股名




三毛猫泣太郎(みけねこなくたろう)


一二三山四五六(ひふみやましごろく)


陸蒸気ツバメ(おかじょうきつばめ)


自動車早太郎(じどうしゃはやたろう)


凸凹太吉(でこぼこたきち)


ヒーロー市松(ひーろーいちまつ)


黒猫白吉(くろねこしろきち)


 


※  この中に実際には存在しない四股名が一つある。どれでしょう。


 


 


答え……陸蒸気ツバメ





『勤労意欲あり』




32歳になる息子には、全く働こうとする意思が無い。ニートの状態が続いている。そんな訳で、間もなく定年退職を迎えようとしている父親が、ついに業を煮やした。


 


「いい加減にしろよ。みっともないから、さっさと働け」


「ったく、うるせえなぁ、ミートなんだから、ほっといてくれよ」


「なにっ、それも言うならニートだろ」


 


父親は肩を落とした。


息子は外へ出て行ってしまった。


「おい、どこへ行くんだ」


「だからミートだって言ったでしょ。昨日から肉屋でバイト始めたんだ」





2011年3月29日火曜日

江美子のお許し




きょう、マサヨさんとアミさんが、教会のみなさんのカードを添えて、愛餐会の食事を届けてくださいました。


ヨウコさん、ターちゃん、ブログを読んで頂いてありがとう。シチュー、ご馳走になります。


感謝!


教会に行けないのは、江美子のお許しが出ないからです。(僕の免疫力が低下している)





絵画




写実主義



おでこ


眉毛







 


ピカソ







おでこ



眉毛


 


 


 





2011年3月27日日曜日

親と子のコミュニケーションとしての「詩」




子供たちの詩を読んでいると、今までにまったく体験した事のない異次元の感応に、触発されることがある。この発見と驚きは、新しい感性との出会いであり、諸手を上げて歓喜する瞬間でもある。


福島県郡山市で、月刊児童詩誌『青い窓』を主宰している全盲の詩人佐藤浩さんは、著書『さけぶ子、つぶやく子』の序文の中で、日常の子供たちの叫び声を代弁して、周囲の大人たちに警鐘を鳴らしている。


「子供にとっての自然は、昆虫や野鳥が飛び交う生命と触れ合う遊び場です。公害や自


然破壊が問題になる以前に、子供たちは詩の中で、緑が食べられてしまうと叫んでいるのです」。


 


子供たちの詩の中には、彼らのつぶやきと叫び声が揺らいでいる。すっかり世俗化してしまった大人たちの感受性とは周波数が異なるので、子供たちの切実な「声」が大人たちには全く届かない。


 


日頃、子供たちが敏感に感じ取っている小さな出来事や、ものの見方や考え方を、文章に託して訴えることによって、子供の心情が発散されて、なおかつ感情が整えられて浄化されて行く。自分の思いを文章で表現することによって、治癒作用が誘発されるので、精神的緊張感や負担が癒されるのである。


 


日記を付けてみることや、走り書きで済ませることでも良いのだが、「詩」という凝縮された言葉の表現に置き換えてみることによって、思考力が自ずと高められてゆき、周囲の者や自然に対する思い遣りが育まれる。


 


佐藤浩さんは「子供は野の花が咲き昆虫の住む場所を土と見、大人は土地と捉えるのです」と解説している。大人はどうも現実的なものの捉え方しか出来ないようであるが、親と子供のコミュニケーションを図る手段の一つとして、「詩」を活用することを提唱したい。


 


週に一度或いは月に一度で良いから、親と子が互に詩を書きあって、交換して読むことを続けるのである。すると日常の会話だけでは気づかなかったことや、子供の好奇心に満ちた深い眼と、無限の可能性を秘めている斬新な発想に、必ず活路を見いだすことがある。


 


親も一緒になって詩を書けば、子供は親の詩を読んで益々心が解放されるので、一段と際立った自分の世界を創造していく。嬉しい時であれ、悲しい時であれ、そして閉口する時でさえ、親と子の間に芽生えた「詩話」によって、何時しか親として詩を書き始めた自分自身にも、好転の兆しが現われ始めることに気づくのである。


 


このようなことから、親子で詩を綴るという使命を持つことは、愛される存在によく似ている。アメリカの現代詩人デルモア・シュワ-ツは、愛されることと、詩を書くように心が惹かれることはよく結びつけられると述べているが、シュワーツの論文『現代詩人の使命』によれば、人間は善の権力と同様に悪の権力にも心惹かれるものであるからだ。


 


私が児童詩に興味を持つようになったのは二十四年前、足立巻一さんとの出会いにあった。足立さんは竹中郁さんや坂本遼さんらと子供の詩の運動を進めて、『きりん』編集に貢献された詩人であった。ロサンゼルスには藤田礼仁さんが主宰している『青い窓』U.S.A.があり、不定期に児童詩誌が発行されている。また、九月にはサンフランシスコとロサンゼルスで、『星野富弘花の詩画展』が開催される。星野さんの描いた詩画を通して、親子で詩作をするための好機として、星野さんの作品を鑑賞しながら、親と子のコミュニケーションの絆を固く結んでいって欲しい。


 


詩精神とは物事の確信へ直入するスピリットであって、あらゆる事柄に対する柔軟な洞察力である。ロシアの文豪トルストイは、「詩によってのみ解決できるような謎がいたるところに横たわっている」と道破した。


 


私たちは詩人の魂ではなく、温和な母親の、或いは父親の眼差しを持って子供たちと触れ合い、共に喜び悲しみながら、愛されていることの深い意義を十分に分かち合えればと思う。


 


新井雅之


 


 





てんかん




丘の上の収容所には


ブルースを感じさせる


不協和音の少年がいた


 


迂遠冗長の少年は


塗炭の苦しみに喘ぎながら


破壊と創造を繰り返すのは


もう 疲れたと言ったために


保護衣を着せられて


独房に放り込まれた


 


魔界に魅入られたかのように


絶叫する少年を


看護人が鉄格子の間から


面白半分に竹槍で突くと


一瞬蛮声を上げ


総身が硬直したかと思うと


全身を〈がくんがくん〉震わせる痙攣が


数十秒つづいた


やがて少年は深い眠りについた


 


丘の上の収容所には


ブルースを感じさせる


不協和音の少年がいた


 


まわりくどいが


几帳面で筋骨型の


動きが遅く鈍い少年だった


ささいなことで苛立ち


激怒する少年だった





2011年3月26日土曜日

憐憫(れんびん)




米女子プロ・バスケット選手、キャビー・ポンデクスター選手は、日本の大震災は真珠湾攻撃に対する報いであると、ツイッターに書きこんでいる。


反論をする者に対して、おまえはジャプか? と言い返したそうである。


ポンデクスター選手は黒人である。米国社会にあって黒人は差別されて来た。心に痛みが判らないのでしょうか。


有名になって、挙句の果ては傲り昂り。僕はポンデクスター選手に、憐憫の情を感じた。





詩の見かた ― 病跡学に即して ―




中村稔は、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、「理想主義の敗北が、詩人にもたらした結果である。この作品に彼の敗北感、挫折感を認めることは、『春と修羅』第三集以降の多くの作品を読んできた読者にとって容易なはずである」。と解説している。(『日本の詩歌』中公文庫)


卓越した芸術家の生涯と、創造の全体像を捉えて、内面にまで深く入り込んでいって、心理学的に考察していく学問のことを病跡学(パトグラフィー)という。


病跡学の研究者で、精神科医の福島章さんに補足してもらうと、伝記作者は人間心理の正常な面を洞察して解釈をするが、病跡学では精神の高みから肉体の深み、異常ないし病的な側面も含めて、さらには心理機制から無意識の内部まで考察される。


宮沢賢治の性格と病を、多くの病跡学者は分裂性気質に位置付けている。仔細は賢治の性質を詳しく考証することによって、「熱中性、執着性、凝り性、几帳面、強い責任感、周囲の者に対する細やかな配慮、対人敏感性」を持っていることが分かった。


そこで、病跡学の文献を分析しながら、文学的観点からの考察を交えて、賢治の作品を閲読していくと、中村稔の解釈が誤謬を犯していることに気付かされる。冒頭の些か抽象的な文章に於いて、中村稔は明晰に賢治の敗北と挫折感を認めている。


即ち、文脈に潜んでいる賢治の「狂気」が、中村稔には全く読みきれていないのである。「狂気」が創造に益し、「創造」が賢治に治癒作用を誘発させたのであるが、賢治が手帳に十一月三日と前書きをして記した、言わば走り書きのメモが『雨ニモマケズ』の「詩」となって結実している。また、賢治はこの時点で、少なくとも勝利者となるべくスタート地点に立っていた。


福島章の言葉を借用するならば、「賢治は自分の中にやはり巨大な一匹のデーモンを飼育し続けていくことになる」。この「狂気」こそが、賢治の創作意欲を掻き立てて、世俗的には敗北者ではあったが、創造に寄与した紛れも無い事実を看過してはならない。


次に紹介する詩は、草野心平の『ぐりまの死』


ぐりまは子供に釣られてたたきつけられて死んだ


取りのこされたるりだは


菫の花をとって


ぐりまの口にさした


(後略)


 


「[ぐりま]、[るりだ]というのは、作者が二匹の蛙につけた仮の名前である。もちろん死んだ[ぐりま]の口に、[るりだ]が菫の花をさしてやるなどということはあり得ない。その辺に菫が咲いていたのだろう」(後略)(解説・伊藤新吉)。


稀に見る粗暴で夢のかけらも無い詩の解説である。「あり得ないこと」は、読者に於いては興醒めするほど周知していることである。詩人には、或いは詩の中では「それ」が可能なのである。


また、伊藤新吉は、「その辺に」菫が咲いていたの「だろう」と、菫の存在を蔑ろにしているが、これこそが心平の意図するところの可能性を十分に秘めている。書き手の気持ちと一体にならない詩の解説ほど、無味乾燥なものはない。


サルトルはボードレールの詩的才能が、二十五歳の時に停止したことを指摘した。それ以降のボードレールの試みは同じことの繰り返しであったことを、「ボードレールの失敗」として位置付けた。


病跡学者の見解に於いても精神分析医の立場からでは、意見が分かれてしまう。その中の一人であるラフォルグは『ボードレールの敗北』を上梓している。 


精神科医の梶谷哲男はボードレールの廃頽について、「この世俗的敗北が、創造的に寄与した点を見落としている」と論じているが、宮沢賢治と同様に大いに共鳴するところである。


元来、「天才と狂気」の係わりを追究して行くことが、病跡学の重要なテーマであったが、現代に於いては「創作と狂気」の関係を深く追究することが、パトグラフィーの枢要な目的となっている。


我が国の近代文学に於いて、無頼派の技巧的、耽美的、或いは反俗的な作風を、「悪魔主義」と呼んだが、未だかつて日本の文壇では、狂気を分析する為の病跡学の考証を、文学作品の解読に積極的に役立てようとする評論活動が遅滞しているようだ。


 


新井雅之





来る日も来る日も100点




来る日も来る日も、ジョイが学校のテストで100点をとってくる。今日は3つのテストがあった。


3つとも100点をとったのは、クラスでジョイ一人だけ。僕に似て頭が良い。☺ ahahahah





2011年3月24日木曜日




のなかには△も×も入る


のなかにもも△も×も入る


△のなかにも×も入る


しかし×のなかには、なにも入らない


さあ 立ち上がろう


窓をひらけ


おもてに飛び出そう


イエスを信じて


祈って 賛美して 悔い改めると


×は△にもにもにもなれる


古いものは 過ぎ去った


今から君は 光り輝く ◎(二重丸)


胸躍る◎の歓喜





2011年3月23日水曜日

座右の銘




忍耐する心に、詩歌が生まれて


花が咲き、実を結び、愛を育む。


絶世の人間は、謙遜にして忍耐を怠らず、努力し続ける。





愛しい




今 途方もなく悲しんでいる人々は


イエス様に愛されて 抱きしめられている





悲しみ




昔 悲しんだ人


今 悲しみにひたっている人


将来 悲しむ人よ


 


悲しみは突然やってくる


 


悲しくて


悲しくて


やり切れない時


 


あなたは神の声を聞くであろう


悲しんでいる者は幸いであると


 





2011年3月22日火曜日

ランディー




ここしばらくの数日間、朝食を食べてランディーをとることにしている。ブランチは朝と昼食を兼用、ランディーは昼と夕食が兼用。


ランディーは午後4から5時の間にとる。一日二食は、体の調子が非常に良い。





幼子のように




考えることのできない人間は


神様に愛される


 


考えることのできる人間は


神様に愛されるのに 選ばれる


 


ただ 信ぜよ


素直に信じる


幼子のように





2011年3月21日月曜日

江美子の励まし




食事が終わって洗い物は僕の仕事だ。最初は左腕だけで出来るかと思ったけれど、工夫次第で出来るものである。


料理も時々作る。切干大根、ヒジキ、ハヤシライス、炊き込みご飯、そば、うどん。ダシはインスタントじゃない。昆布と鰹でダシをとって、酒とみりんと醤油で味を調える。


江美子の励ましに支えられて、「右手も必ず動くようになるよ」。イエス様の癒しを信じて歩もう。





フィッシュ・アンド・チップス




数々あるメニューの中で、僕はフィッシュ・アンド・チップスしか食べた事がない。『キングス・ヘッド』のフィッシュ・アンド・チップスは、衣がクリスピーで中身の白身魚(たら)は、瑞々しくて甘みを含みホクホクとしている。


僕は30年来の『キングス・ヘッド』のフィッシュ・アンド・チップスのファンである。本場、イギリスに勝るとも劣らない味。


僕は数多くのレストランで、フィッシュ・アンド・チップスを食べたが、『キングス・ヘッド』に勝る所は皆無である。


サンタモニカへお出掛けの際は、『キングス・ヘッド』に行こう。





2011年3月20日日曜日

イエス様のように




本日、ジョイの現地校の校長先生とミーティグをして来た。5年生になったら、公立校に転校させようと思っている。


理由の一つに、プライベートは月謝が高い。アメリカのパブリックは無料だ。因みにジョイ学校の月謝は600ドル。


校長先生曰く、ジョイがスマートで優しいから、わが校に12年生まで在籍してほしい。結局、奨学金が出ることになった。


僕の医療費も無料。ジョイのプライベートの学費も無料。アメリカは寛大で懐が深い。イエス様のように。





2011年3月19日土曜日

気合を入れて食べてみたい




カテゴリー食『究極の極細素麺』を読んだ姉から、利尻昆布と本枯れ鰹をセットにして、三輪の手延べ素麺を、奈良より我が家に届いた。


弟思いの姉に感謝するしだい。カラフルな素麺に、子供のころ食べた素麺を思い出した。気合を入れて食べてみたい。


今度は何を送って貰おうかな? カラスミにしよっと!





2011年3月18日金曜日

美味しいラーメンのパイオニア




阿倍野(大阪)の地下街に、1968年に開店した『古潭』(こたん)は、美味しいラーメンのパイオニア的存在。


往時、ラーメンは一種類、とんこつ醤油だったかなぁ… カウンターに座ったら、自動的にラーメンが出てくる。


昼時になると、列ができるほどに美味しい。今ではメニューが増えて、餃子と餃子ラーメンもある。





2011年3月17日木曜日




僕には優しさが足らなかった


あの時 友に優しくしとけば良かった


優しくあれ あらゆる人に


優しい心を持てば 僕自身 救われる


 


優しい言葉


優しい笑顔


みんなが幸せになれる


 


イエス様は この上なく優しい光を放つ





2011年3月15日火曜日

提案




僕が病院に入院している時、皆から御見舞金を頂いた。大震災に遭った人々への、海外からの義援金を、1ドル200円にならないだろうか。せめて1ドル100円にしてください。





2011年3月14日月曜日

リバイバル




東北地方に大地震が急襲した


我が故国に 母なる大地に


大津波が押し寄せる


 


海外にいる僕たちは テレビの映像に唖然とした


イエス様に祈って 祈って 祈るだけ


 


死亡 行方不明者何万人 原発の放射能漏れ


神の御加護がありますようにと祈って 祈って 祈り続けた


 


問題が山積みの 日本列島


聖霊に祈って 祈って 祈るだけだ


 


日本が犠牲になって 世界は一つになれたような気がする


未曾有の艱難辛苦に遭遇して 日本には必ずリバイバルがやって来る


 


僕も病苦と闘って 神様の慈愛を知らされた


がんばれ日本 僕もがんばる


がんばれ東北 僕もがんばる


 


イエス様の愛は 限りなく続くと信じて


 


 


(大震災で亡くなられた人の、ご冥福を心よりお祈りします)





Pray




 


神に祈れ


イエスに祈れ


聖霊に祈れ


Pray for Japan


 





2011年3月13日日曜日

余は満足じゃ!




大阪には、安くて旨いもんが、ぎょうさんありまっせ! この度、ご紹介するのは、『粋・焼肉 鶴兆』なんばCITY店。「牛とろにぎり」と「特選厚切タン」がめっちゃ美味しい。


天然の天日塩と秘伝のタレが、焼き肉の味を引き立てる。僕はいつでも、「上ミノ」と「とろてちゃん」を注文する。


食通を唸らせる焼肉屋、『鶴兆』に余は満足じゃ!


大阪市中央区難波5‐1‐60 なんばcity本館1階   06‐6644‐2935   不定休





2011年3月12日土曜日

和食・えん




日本に帰国をして、美味しくてリーズナブルな、純和食が食べたいと迷ったならば、東京、横浜、名古屋、大阪に店舗がある『和食・えん』にどうぞ。


和食モダンを基本にした料理の数々は、宴会コース4200円から、単品メニューも豊富。落ち着いた雰囲気とオープンキッチン。本格的な和食料理が満喫できる。


詳しくはホームページを見てね !





2011年3月11日金曜日

ホームレスの詩人




日本へ主張の際、大阪駅のガード下でツネコさんと出会った。ハワイ生まれのツネコさんは、日本に来られて、詳しい経緯は知らないがホームレスになった。


ガード下では日々の食費代を稼ぐために、歌集を売っておられる。僕も一冊購入をした。ツネコさんの詩は愉快だ。「服はパリス バックはシャネル 靴はイタリー 時計はスイス 中身はジャパン 頭は空っぽ」


ツネコさんは、マスコミの目にとまり歌集を出版。印税を元に、釜ヶ先に三畳のアパートを借りて、住み始めた。


アメリカ人のホームレスに、詩を書いて売っている人がいるだろうか。





そして感謝!




今日、教会の婦人会の方々から、お弁当が届いた。カードには、「主は彼を、その病の床でささえられる。あなたは彼のやむ時、その病をことごとくいやされる。」詩篇41:3


ご馳走様、そして感謝!





2011年3月10日木曜日

ロシアの豚まん




ロシア料理のレストラン『バラライカ』(神戸)は、その昔、神戸在住の画家、小松益喜さんと共に訪れた。以前にも、僕は2度ばかり赴いている。


『バラライカ』では、僕はボルシとピロシキ以外、何にも食べた事がない。小松さんはピロシキを頼む時に、「ロシアの豚まんをください」と、おっしゃた。


『バラライカ』で、小松益喜画伯と過ごした思い出は、僕は一生涯忘れないだろう。





2011年3月9日水曜日

元気だ




今月は、殆ど通院がない。外気は肌寒い。運動がてらに、家の前を何回も歩いた。ゲート・コミュニティーだから静かだ。別に変ったことわなし、僕は今日も元気だ。


 





お洒落なステーキ




アメリカを代表する料理はステーキ。LAのダウンタウンあるステーキ・ハウス『The Palm』


ここのステーキ・ハウスで、僕がオーダーするのは決まっている。先ずは、ロブスター・ビスク。ステーキはラム・リブ・チョプ、又は骨付きリブ・アイ・ステーキ。


アメリカを彷彿とさせてくれる、お洒落なステーキ。