2011年3月27日日曜日

親と子のコミュニケーションとしての「詩」




子供たちの詩を読んでいると、今までにまったく体験した事のない異次元の感応に、触発されることがある。この発見と驚きは、新しい感性との出会いであり、諸手を上げて歓喜する瞬間でもある。


福島県郡山市で、月刊児童詩誌『青い窓』を主宰している全盲の詩人佐藤浩さんは、著書『さけぶ子、つぶやく子』の序文の中で、日常の子供たちの叫び声を代弁して、周囲の大人たちに警鐘を鳴らしている。


「子供にとっての自然は、昆虫や野鳥が飛び交う生命と触れ合う遊び場です。公害や自


然破壊が問題になる以前に、子供たちは詩の中で、緑が食べられてしまうと叫んでいるのです」。


 


子供たちの詩の中には、彼らのつぶやきと叫び声が揺らいでいる。すっかり世俗化してしまった大人たちの感受性とは周波数が異なるので、子供たちの切実な「声」が大人たちには全く届かない。


 


日頃、子供たちが敏感に感じ取っている小さな出来事や、ものの見方や考え方を、文章に託して訴えることによって、子供の心情が発散されて、なおかつ感情が整えられて浄化されて行く。自分の思いを文章で表現することによって、治癒作用が誘発されるので、精神的緊張感や負担が癒されるのである。


 


日記を付けてみることや、走り書きで済ませることでも良いのだが、「詩」という凝縮された言葉の表現に置き換えてみることによって、思考力が自ずと高められてゆき、周囲の者や自然に対する思い遣りが育まれる。


 


佐藤浩さんは「子供は野の花が咲き昆虫の住む場所を土と見、大人は土地と捉えるのです」と解説している。大人はどうも現実的なものの捉え方しか出来ないようであるが、親と子供のコミュニケーションを図る手段の一つとして、「詩」を活用することを提唱したい。


 


週に一度或いは月に一度で良いから、親と子が互に詩を書きあって、交換して読むことを続けるのである。すると日常の会話だけでは気づかなかったことや、子供の好奇心に満ちた深い眼と、無限の可能性を秘めている斬新な発想に、必ず活路を見いだすことがある。


 


親も一緒になって詩を書けば、子供は親の詩を読んで益々心が解放されるので、一段と際立った自分の世界を創造していく。嬉しい時であれ、悲しい時であれ、そして閉口する時でさえ、親と子の間に芽生えた「詩話」によって、何時しか親として詩を書き始めた自分自身にも、好転の兆しが現われ始めることに気づくのである。


 


このようなことから、親子で詩を綴るという使命を持つことは、愛される存在によく似ている。アメリカの現代詩人デルモア・シュワ-ツは、愛されることと、詩を書くように心が惹かれることはよく結びつけられると述べているが、シュワーツの論文『現代詩人の使命』によれば、人間は善の権力と同様に悪の権力にも心惹かれるものであるからだ。


 


私が児童詩に興味を持つようになったのは二十四年前、足立巻一さんとの出会いにあった。足立さんは竹中郁さんや坂本遼さんらと子供の詩の運動を進めて、『きりん』編集に貢献された詩人であった。ロサンゼルスには藤田礼仁さんが主宰している『青い窓』U.S.A.があり、不定期に児童詩誌が発行されている。また、九月にはサンフランシスコとロサンゼルスで、『星野富弘花の詩画展』が開催される。星野さんの描いた詩画を通して、親子で詩作をするための好機として、星野さんの作品を鑑賞しながら、親と子のコミュニケーションの絆を固く結んでいって欲しい。


 


詩精神とは物事の確信へ直入するスピリットであって、あらゆる事柄に対する柔軟な洞察力である。ロシアの文豪トルストイは、「詩によってのみ解決できるような謎がいたるところに横たわっている」と道破した。


 


私たちは詩人の魂ではなく、温和な母親の、或いは父親の眼差しを持って子供たちと触れ合い、共に喜び悲しみながら、愛されていることの深い意義を十分に分かち合えればと思う。


 


新井雅之


 


 





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