2010年12月30日木曜日

水前寺清子




僕が若い頃、水前寺清子の歌がダサく思えた。今日たまたま、水前寺清子の歌をテレビで聴いた。突然、懐かしさがこみ上げてきた。


僕も年なのかなぁ、水前寺清子の歌の歌詞が、僕の心に響いた。今度、CDを購入しようかなと思った。闘病生活をしていると、元気の出る演歌が良い。





死ねない男




男は落ち込んだ。そして自殺を考えた。夜中に酒を呷って線路に寝た。始発までには死んでいるだろう。目が覚めたらまだ生きている。鉄道会社はストに突入していたのだ。


男は心機一転、猛烈に働いた。暫くして、また落ち込んだ。そして自殺を考えた。ウイスキーを飲んで、ガスの元栓を開いた。直後に大地震があった。ガス会社がガスの供給をストップした。また、死ねなかった。


男は田舎へ帰った。また落ち込んだ。今度こそは失敗せずに自殺をしょう。睡眠薬を飲んで、太い木の枝にロープを縛り、首吊り自殺を図った。5分後に木の枝が折れて、またもや死ねなかった。





Prelude in E Minor




昨晩、FMでアスペクト・イン・ジャズを聴いている夢を見た。ジェリー・マリガンの『Prelude in E Minor』が流れて、「皆さん今晩は、油井正一です」


懐かしい夢を見たものだ。昔、FMでよく聞いていた番組だ。僕はジャズが好きだ。ジャズ好きが高じて、アメリカへ来たと言っても過言ではない。


昔、ダウンタウンの南外れに、うす汚いジャズ・クラブがあつた。治安の悪い場所だ。午前2時まで営業していた。


往時、僕はまれに足を運んだ。黒人の客が大半を占める。ドラッグをやっている奴もいる。ある晩、珍しく白人のサックス・プレーヤーが出演していた。


彼は、バリトンに持ち替えると、『Prelude in E Minor』を演奏し始めた。午前1時45分、ラストの曲であった。


僕はガラスの箱に、チップを入れてこの店を後にした。


 





Tボーン・ステーキ


Denny’s U.S.A.のTボーン・ステーキが以外と美味しい。日本ではTボーン・ステーキなる言葉は、あまりポピュラーじゃない。

TボーンとはT字型骨の片側にフィレ、もう一方がサーロイン、二つの味が楽しめる。メニューに載っているTボーン・ステーキ(約350グラム)に、付け合わせが二つ付いて16ドル。

僕はメニューに載っていない、Tボーン・ステーキ・オンリーをオーダーする。しかも二枚も、

一枚が8ドル59セント、二枚で17ドル18セント。

ステーキ専門店でTボーン・ステーキ食べたら、少なくとも25ドル以上はするであろう。





2010年 冬  俳句 2




 1. 年の瀬に信仰のお洒落で歩む


2. 短日に早い夕餉ぞハンバーガー


3. 鮨カレー食べられるのは如月に


4. 黄昏に不安が募る主に委ね


5. まだ遠い凍てつく心光あれ


6. 田楽を食べたし冬尽くすまでに


7. 侘び住まい春爛漫に茶懐石


8. 一人ぼっちで過ごす聖しこの夜


9. ジャズを聴きカクテルを飲む夜長かな


 





年の瀬に




もういくつ寝たらお正月。


クリスマスも、年の瀬も、お正月もあったものではない。平常どおり過ごすだけ。


イエス様に祈り続けるだけだ。


 


「主に祈る癒してくれと年の瀬に」





2010年12月29日水曜日

良いお歳をお迎えください




ひろちゃん、たーちゃん、きよちゃん、れいちゃん、ゆりちゃん、読者の皆様有り難うございました。来年も『帰って来たひつじ』を宜しくお願いします。


僕は病気に負けることなく、来年も一生懸命に頑張ります。それでは、良いお歳をお迎えください。





2010年12月28日火曜日

ジャズとカクテル




僕の家でよく作るカクテルに、ウオッカとトマト・ジュースをベースにしたブラディー・マリーがある。日本語に訳すと、血だらけのマリーさんと言うことになる。従って、トマト・ジュースだけならば、バージン・マリーとなる。


僕はかつて、ウオッカとジンジャエールをミックスしたカクテル、モスコミュールをナイトキャプにしていたことがある。バラードのジャズを聴きながら、やがて眠りに就く。


僕はジャズが好きだ。サックスの入ったカルテットが最も好きである。僕の詩に『赤いブルー』と言うのがある。ジャズ・ピアニストのアーク佐野さんに見せたら、この詩を読んで、イメージを膨らませて作曲してくださった。


曲名は『レッドブルー』。燻銀のバラードに仕上がった。アーク佐野さんのファースト・アルバムに収録されている。風呂上がりに、ジャズを聴きながらカクテルを飲む、これが僕のリラックス術だ。


 


「ジャズを聴きカクテルを飲む夜長かな」


 





2010年12月27日月曜日

光あれ




以前、スピーチセラピーの効果が突然表れ、僕は、もはや言語障害などではないと書きました。


あれは、僕の錯覚でした。まだまだ訓練は必要だ。舞い上がっていたことを、深く反省している。


 


「まだ遠い凍てつく心光あれ」





指切りをして思ったこと




「ウソついたら針千本のーます」。最近、娘と約束をする度に、指切りをさせられる。


論語のなかに、こんな話が出てくる。ある時、葉公(しょうこう)という人が孔子さまに自慢げに語った。「父親が羊を盗んだ時、子がその事実を証言しました」


孔子さまは透かさずおっしゃった。「わたしの村の正直者は、子に悪い行いがあれば親が隠してやり、父に悪い行いがあれば子が隠してやります。それが自然の性質に従った正直な行為です」


自然の性質に従った正直な行為とは、お互いに思い遣る気持ちを大切にしなさい。孔子さまはそのように語っておられるのだろう。


愚直な者のことを、馬鹿正直なやつと言って揶揄することがある。融通の利かない四角四面な人間は、とかく敬遠されやすい。孔子の教えをもう少し気高く精解するならば、自己よりも真理を優先させるべきだが、時には真理よりも隣人を愛さなければならない。概して、キリストの教えに通じるものがある。


子が育ち、一人前になると、やがて「嘘も方便」という処世術を知るようになるのだろう。だが、「方便」とは、日常語としての「便宜的な手段」という意味ではない。仏教語である「方便」の真意は、「たくみになされた手段」を示している。従って「方便」には、相手を救済してやろうとする、釈尊の慈悲の精神が根差していなければならない。


人間は正直であるべきである。けれども、それと同等の真理が対極にあるとするならば、人の心は迷妄するばかりだ。


娘には、取分け凛々しく育ってもらいたい。





2010年12月26日日曜日

『旬粋』




帰国したら、美味しい和食が食べたい。名の通った一流店で、味が良く清潔で、しかも値段が安い。そんな和食のレストランがあったかなぁ?


内外の著名人が訪れた、料亭『京都つるや』の直営店、その名も『旬粋』。大阪梅田の阪神百貨店10階にある。


ホームページを添付しましたので、この料理に、この値段は驚き。店は清潔感にあふれている。


阪神百貨店 旬粋
www.kyoto-tsuruya.co.jp/hanshin.html








ある日、竹馬(ちくば)の友はつぶやいた。「千利休はクリスチャンだった」


その理由(わけ)は、お茶室に入る時、引き戸が狭く頭をかがめて入る。千利休は聖書の「狭き門より入れ」と言う御言葉に影響を受けたと言う。


僕は異論を唱えた。「天神祭の屋形船は入口が狭い。千利休はその影響を受けていた」確かに友の意見にはロマンがある。僕の意見は現実的だ。


表千家、裏千家の由来について、お茶の先生から教えてもらった。長男は表の井戸を使い、二男は裏の井戸を使った。


 


「侘び住まい春爛漫に茶懐石」





絶品のチャーハン




ロサンジェルスのチャイナタウンに、レストラン『チャイニーズ・フレンド』がある。間口の狭い入口を開けると、矩形の小さなダイニングが、目の中に飛び込んでくる。


僕が毎回オーダーする物は決まっている。先ず、ミックス・チャーハン、鶏肉とジンジャーのスープ、それからエビのソテー塩味である。


特筆に値するのが、この店のチャーハン、華僑の食通が喉を唸らせて食べることだ。美味い、安い、早い、三拍子そろっている。ブロードウェーの北の果てに、小さな『チャイニーズ・フレンド』が、ポツネンと佇む。





2010年12月25日土曜日

主に委ね




最近、にわかに僕の心の中に不安感が芽生える。不安が生ずる時、イエス様に委ねる。そうすると、たちまち僕の心にあった不安感が消え去る。


主は今、生きておられる。なんら杞憂することは無い。平安な心に、喜びを持って歩もうではないか。


 


「黄昏に不安が募る主に委ね」





しゃくにさわる君




「しゃくにさわる君、こんにちは。また、太りましたね」


「しゃくにさわる」


「君の顔は、相変わらず黒いですね」


「しゃくにさわる」


「その服、メチヤ趣味が悪い」


「しゃくにさわる」


「君は一日に五度、ご飯食べるのだって」


「しゃくにさわる」


「君の姉さんブスだね」


「しゃくにさわる、もう我慢ができない」


「君の性格、優しくて素敵だねぇ」


「しゃくにさわりましぇーん」





忘れた




このエリアは、金持ちばかりが住んでいる高級住宅街。おばあさんは、隣に引っ越してきた成金一家が気に食わなかった。おばあさんは、隣の家でパーティーを行うと小耳にはさんだ。おばあさんは、こぼした「生意気な、あの成金がパーティーだと」。


「我が家でも隣に負けない盛大なパーティーをやろう」。おばあさん早速準備に取り掛かった。邸宅に居るメイドたちでは間に合わないから、給仕とバーテンダーを数十名雇うことにした。


豪華な料理、季節の花々、一流の楽団、バレーパーキング係り、お土産、どれもこれも最高級の物ばかり用意をした。おばあさんは、パーティーの日に着るドレスを新調した。数日間、おばあさんは忙しかった。ようやく準備万端整った。後は来客が訪れるのを待つだけだ。


約束の時刻が来ても、来客は一人も来ない。待てど暮らせど、来客は一人として来ない。おばあさんは怒り心頭に発した。「あの野郎ども、わしに恥をかかせよって!!!」


おばあさんは、アルコールをガブ飲みして怒り狂いながら、息を引き取った。実は、おばあさんは、招待状を出すのを忘れていたのである。


 


 


 


 


 





2010年12月23日木曜日

笑い治療




スピーチ・セラピストのバレリー先生の所へ行って来た。バレリー先生が適当にセンテンスを作って、喋りなさいと指示をした。


僕は、「男は嫌い。女は好き」と言ったら、バレリー先生がゲラゲラと笑いだした。


イン、アウトの発音をしている時に、僕が突然イン・アンド・アウト・ハンバーガー、ダボダボと言ったら、また、バレリー先生が笑いだした。


舌が良く回るように、なるべく早く「パタカパタカパタカパタカ」の練習をしている時、僕が早く言えないで詰まったら、傍らに座っていたジョイが笑い転げた。





The Nativity ― 降誕 ―





ぼくのこころは


ベツレヘムの里


白銀のぶどうの実が


冬の空から


しーん かーん


 


御使いたちは


ぼくに温かな息を吹きかけて


星の彼方へ


しーん かーん


 


至高のホワイト


ジーザス・クライスト


ぼくらは


ぼくらは


かーん きーん


 


かーん きーん


 


かーん きーん


 


 


 





喜び




時おり出向く仕事先の近くに、たいそう繁盛しているメキシカン・ファーストフードの店がある。昼前から店先に客が並び始めて、正午を過ぎた辺りから目白押しになる。安価でボリュームがあって、旨いとくれば、栄えること受合いである。


ところが、「あの店は、どうもね」。異論を唱える者が多かれ少なかれいる。味覚には、その人の好みというものがある。万人から愛好される味を作り上げるのは容易ではない。と落ちを入れたいところだ。


実は、そうではなかった。少し離れた場所に、同じようなメキシカン・フードの店がある。店舗は件(くだん)の繁盛店よりも二回りほど小さい。ブリトーの味は何ら遜色がない。


仕事先のスタッフは、たとえ繁盛店が空いていたとしても、わざわざ足を伸ばして小さな店の方へ買いに行くという。


そのわけを訊ねてみると、小さな店でオーダーを受け付けているメキシコ系の女性の笑顔が、爽やかで非常に感じが良いからという答えが返ってきた。


なるほど、繁盛店の方は従業員一同、仏頂面をさげて突っ立っている。応対も粗雑で、全体の雰囲気がおろそかである。


小さな店のオーダーを入れるカウンターには、物腰の柔らかい、にこやかな女性が立っていて、親切に接客してくれる。如才のないてきぱきとしている挙措から、彼女のまめやかさが滲み出ているのである。


タコやブリトーを買い求めるだけで、欣快な気持ちになってくる。彼女の胸元に垂れ下がっている黄金色の十字架は、敬虔なカソリック信徒の証しなのだろう。莞爾(かんじ)として笑う彼女の表情をひとたび見たら、誰でもそのように思いたくなる。


きょうは、クリスマスイブ。「いつも喜んでいなさい」。聖書に綴られている一句が、僕の脳裏を星になってかけぬけた。





2010年12月22日水曜日

聖しこの夜




今年のクリスマスは、どうやら一人ぼっちになりそうだ。ジョイと江美子は従妹の家でクリスマス。僕も行きたいけど、ご馳走が並ぶところへは行きたくない。食事制限があるからだ。


来年の二月まで辛抱、辛抱。


 


「一人ぼっちで過ごす聖しこの夜」





如月(きさらぎ)に




僕の食事制限が解けたら、最初に何が食べたいと家人に問われた。彼女が想像していた食べ物は、鮨と刺身であった。


僕は一息入れてから答えた。「それは、ビーフカレー」。本音は、その時になってみなければ分からない。


 


「鮨カレー食べられるのは如月に」





洋酒




僕が子供頃、大人がウイスキーを飲む時、その殆どが、ハイボールで飲んでいたと記憶している。僕が大人になって、周りの人たちがウイスキーを飲む時、全員が水割り飲んでいる。長い期間、水割の時代が続いた。


巷では、ハイボールで飲むのが流行っている。ハイボールで飲むと酔いが早まる。胃が炭酸よって刺激されるからだ。


ウイスキーと言えば、ショット・グラス。ストレート・ノー・チイサーに限る。格好のアペタイザーになる。水割りで飲むのは邪道だ。


僕はかつて、洋酒のコレクターだった。日本に住んでいた時に、僕の部屋にホームバーがあった。お薦めは、バランタインの17年もの、30年ものは値が張りすぎる。


よく飲んだスコッチは、シイバスリーガル。バーボンであれば、アーリータイムス。ウオッカはモスコワヤ。最後にコニャクはナポレオンのビスキーだ。


往時、足しげく通ったバーは、大阪ロイヤルホテルのセラーバー。世良譲さんのジャズピアノを聴きながら、フォアグラのテリーヌを肴にグラスを傾けた。渡米してから、クラウン・ローヤルの美味さと飲みやすさに出会った。


良き時代であった。





飲茶




日本でもお馴染みの、飲茶専門のレストラン『ディン・タイ・フォン』。ロサンジェルス郊外のアーケーディアにある。

日本は新宿の高島屋にある。 名物は小籠包(しょうろんぽう)。その他のお薦めは、エビと豚肉のしゅうまい、タマゴ・チャーハン、そしてデザートにゴマ饅頭。


【住所】1108 S. Baldwin Ave Arcadia CA 91007
【電話】626-574-7068





月と星




* デンバーにお住まいのT・Aさんからのご質問です。


 


産経電子新聞の『俳句と短歌』の欄に掲載されていた、黛まどかさんのエッセイ『待宵の月』を読まれたT・Aさんは、「 ・・・・・・ やや欠けた月を尊ぶ美意識は、日本人独自のもののようだ」という一文に疑念を抱いておられます。


T・Aさんは、月を尊ぶ美意識は、世界の人々に共通するものであるとおっしゃるのです。


日本の絵画や定型詩、あるいは美意識的文化背景には、「花鳥風月」で表現されるわびさびが漂っています。


歳時記を見ますと、「月」に関する季語はたくさんありますが、「星」は流星ぐらいです。また『平家物語』の月の描写は有名ですが、古から日本人は四季折々の「月」を定型詩や絵画の題材として選び、欠けた月やおぼろ月を愛でるのです。


比して泰西では、天文学に優れたカルデア人が星座図を考案して以来、やがて星座図はギリシアへと伝わって、神話や伝説に結びつきました。これらは、西洋占星術の原型でもあります。


ジョセフ・コンラッドというイギリスの作家は、「月」は冷徹で恐ろしいミステリーだと言い。詩人のサンドバーグは、「月」は孤独な人間の唯一の友であると表白するのが精々です。彼らには、どうも「月」を尊ぶ習慣はなかったようです。


 





俳句 2010 冬 1




1. 喀血しイエスを信じホトトギス


2. 試練なり病気失敗主の恵み


3. クリスマスJoyJoyの花が咲く


4. クリスマスJoyの花咲くおめでとう


5. 年明けに再度入院雪しまき


6. 末期癌笑顔を持って対峙する


7. 追憶に寒梅添える師走かな


8. 冬ざれに歓喜の渦と主の癒し


9. 短日に早い夕餉ぞハンバーガー








指揮者の小澤征爾さんがスランプの時、偶然に海外の空港で作家の井上靖さんと遇った。


井上靖さんが「音楽は世界共通ですよね。文学には言葉の壁がある」。それを聞いた小澤征爾さんは、スランプから脱出できたという。


ノーベル文学賞を廃止すると言われて久しいが、各国の言葉で書かれた文章を、英語に翻訳しなければならない。正しく言葉の壁だ。


川端康成の『雪国』はスーノー・カントリー、『伊豆の踊子』はイズ・ダンサー、何だかしっくりとこない。イズノオドリコは伊豆の踊子であって、イズ・ダンサーなどではない。


今日、テレビで放映されていた、松尾芭蕉の俳句の件(くだり)に、「凍てつく」とあった。英語に訳すと「フローズン」。何と味気のないことに、なってしまうのだろう。


文学には翻訳という言葉の壁がある。しかも、アルプスよりも高くそびえる壁である。





2010年12月21日火曜日

信仰のお洒落




ロサンジェルスの天気は雨続き、ホリデーシーズンだと言うのに、やらずの雨。出掛けるのがおっくうになる。


去年の今頃は、半身不随の体を引きずりながら、ショッピングに出掛けた。今年も連れていってくれるかなぁ。


とりわけ、ハンチングとセーターを買いたい。健康な体だったら買いたいものがいっぱいある。


2007年の暮に、衣類をまとめて購入していたのに、2008年に病気で倒れてしまったので、一度も袖を通さない状態で、クロゼットの中でスーツは眠っている。


スーツが目を覚ますのに、どのくらい時間が掛かるのだろうか。僕は、最低でも2年はかかると思う。


 


イエス様の癒しを信じて、歩もうではないか。


 


一句ひらめきました。「年の瀬に信仰のお洒落で歩む」


 


 


 





冷凍人間




西暦3500年代、人類は想像もつかないほど進化を遂げている。3551年に流行したものがある。高度な瞬間冷凍技術よって、人間の心臓を何十年も停止することが可能になった。これによって人間の寿命が、未来へ向けて一休みすることが可能だ。


人間が冷凍状態でいる期間は、人間は年をとらないのである。40歳の人間が冷凍されて、50年間冷凍人間になっていたとする。50年後に40歳のままだ。


夫婦で冷凍人間に参加しないと、夫の方が30歳、妻が70歳と言うこともありうる。冷凍は、どんな生き物でも可能だ。


冷凍人間になっている長い眠りの中で、もうひとつの世界が体感できる。夢の中での体験だ。これを体験したいがために、冷凍人間のブームが3351年に巻き起こった。





2010年12月19日日曜日

宣告




僕の知人に、サンデエゴ在住の女性がいる。60歳の時に医師から、余命半年の末期癌であることを宣告された。彼女曰く「医者の言うことを、まともに聞いていたら駄目よ。私、あれから20年も生きている」


僕も末期がんと宣告されて約2年半が経過した。数々の治療によって、癌細胞は80パーセントまで死滅した。来年の1月21日、六度目の入院をして、更に癌細胞を死滅させる。そのために備えて食事制限をしている。


 


医師から末期癌であると宣告をされた瞬間、生きた心地がしなかった。





2010年12月18日土曜日

早すぎた裁き




ジェニファーは、フロリダに住んでいる両親の許へ行くために、空港へと向かった。搭乗時刻まで少し時間があったので、クッキーを買って、読みかけの本を読んで時間をつぶした。あまり本のストーリーが面白いので、時間の経つのを忘れかけていた。


その時、隣に座っていた男性が、さっき買ったばかりのクッキーを食べているではないか。「まぁ、あつかましい」と、ジェニファーは心でつぶやきながら、ジェニファーもクッキーを食べた。


クッキーが最後のひとつになった時、両者の手が伸びた。男性は微笑みながら、ひとつのクッキーをジェニファーに譲った。


ジェニファーは不愉快な思いを、断ち切るように飛行機に搭乗した。シートに座ってバックの中を開けると、さっき買ったクッキーが入っていた。


 


※  リビング・ライフに掲載されていたコラムを潤色しました。


 





ハンバーガー




キッズ・ミールのカロリーが高いとか何とかで、個人か団体か知らないが、マクドナルドに訴訟を起こした。


昔はハンバーガーに、ベーコン、アボカド、マッシュルーム等を挟んだハンバーガーは無かった。僕はオールド・ファションのハンバーガーをこよなく愛している。ハンバーグの上にレタス、玉葱、トマトを乗せて、バンを挟んでたべる。


昼時になれば、超満員なのがIn-N-Outハンバーガー。店のカウンターもドライブ・スルーも長蛇の列。アメリカ人も日本人も美味しいと言っている。僕はCarl’s Jr.のハンバーガーの方に軍配を上げる。


In-N-Outに裏メニューなるものがある。その名も4by4、バーガー4枚、チーズ4枚を交互に重ねてからバンで挟む。それから、Animal Style Friesと言うのがある。フレンチフライの上に、飴色に炒めた玉葱とサウザン・アイランド・ソースがかかっている。


やはり僕はCarl’s Jr.のSix Dollar Burgerが美味いと思う。アンガス・ビーフ100%使用。それに、オールド・ファション・スタイルが気にいっている。 


何時か行った、あの、ハンバーガー・ショプ、名前は忘れたが場所は覚えている。肉の大きさと焼きかげんが、オーダーをする際に聞かれる。野菜はバッフェ形式の取り放題。店は大きく、何時行ってもすいている。


この店のハンバーガーは、肉汁が上手い具合に閉じ込めてあり、噛んだとたんに肉汁が野菜と合いからまって、口の中に広がって行く絶妙なハーモニーをかもし出す。一押しの超美味しいハンバーガー。


 


「短日(たんじつ)に早い夕餉(ゆうげ)ぞハンバーガー」





ゾウの絵




娘のJoyは絵を描くのが好きだ。4歳から7歳まで絵画教室に通っていた。日系のフェスティバルの折に、絵画の展示会があった。Joyはゾウの絵を展示することになった。


Joyのゾウの絵を見て、感動したのか、売ってくださいと言った来場者が4人もいた。Joyが4歳半の時に描いたゾウの絵がこちら。


Messagepart





2010年12月17日金曜日

歓喜




今朝、突然に、スピーチセラピーのエクササイズによって、喋り方が以前よりもすらすらと、喋れるようになった。もはや、僕は言語障害ではない。


歓喜の渦が僕を包む。ブログに載せた詩、『喜び』の世界を地で行くかのようだ。主の癒しを信じ続けた勝利である。


 


「冬ざれに歓喜の渦と主の癒し」








子供の頃に、祖母の手に引かれて縁日によく行った。一休みする所は関東煮(おでん)屋。僕は何時も、コロ(鯨の皮を煎り、脂肪をぬいて乾燥させたもの)を食べたいと思っていた。


 大きくなって念願がかなって、おでんのコロを食べた。ものすごく美味かった。暫くして大阪、道頓堀の『たこ梅』(当時は、おでん専門店)で、さえずり(クジラの舌)を食べた。コロよりも美味しかった。でも、値段が高かった。兄と二人で、おでんを食べて飲んで、37年前に10,000円。


35歳位の頃、大阪の日本橋でハリハリ(くじら)鍋を食べた。鯨肉と水菜と昆布の出し汁のオラトリオが、絶妙にマッチしていて、こたえられない味に仕上がっていた。


尾の身(鯨の背びれから尾の付け根までの肉)は酒の肴としては最高であるが、僕が渡米前に、母が買ってきてくれた尾の身刺身を、ショウガ醤油をつけて賞味した。天にも昇る思いで味わったのを、未だに覚えている。


昔の給食は肉と言えば鯨であった。主に日本とノルウェー以外の国は鯨を食べない。アメリカで鯨を食べさせてくれるレストランは皆無だ。僕は鯨を食べたいと、思いは募るばかり。


 





喜び




喜びをかみしめて 大空を飛んでみたい


野の花は咲きみだれて 小鳥のさえずりが聞こえてくるよ


森には小川が流れていて 喜びの歌のメロディーが ぬけるほど美しい


 


喜びをかみしめて 海原を泳いでみたい


さんごしょうは七色に光り 海鳥たちの唄が聞こえるよ


大なみ小なみうず潮の 喜びの歌のメロディーが ぬけるほど美しい


 


喜びをかみしめて みんなで大地を歩みたい


朝な夕なに感謝して 笑顔で絶えない毎日を過ごそう


いつも喜んでいなさい 歓喜の歌のメロディーが ぬけるほど美しい


 


2009-10-27   新井雅之


(Joyのために)





超ショート




「ダグラスのガール・フレンドの名前、何と言ったかなぁー。コップでもない、茶碗でもない。あっ、思い出した。サラゃー」





主の癒し




 


主の癒しを信じます。


信じ続けます。


 


 


 


 





2010年12月14日火曜日

名作アニメを鑑賞して




ウォルト・ディズニーが社運を懸けて制作した初めての長編アニメ映画、『白雪姫』のビデオを幼い娘と二人で鑑賞した。


継母のお妃が、醜い物売りの老婆に変身して白雪姫に毒りんごを勧める件(くだり)は、狡猾な長虫が、後にエバと名付けられる女を唆す『創世記』第三章の場面を彷彿とさせてくれた。そして物語が最高潮を迎える最後の場面では、死んだ筈の白雪姫が蘇って、皇子に迎えられて幸せになる。正に、イエス・キリストの復活の喜びと感動である。


アナハイムのディズニーランドへ行くと、『白雪姫』のミュージカルが上演されていたので、親子三人で最前列に鎮座して鑑賞した。テーマはお妃の嫉み(罪)と、問題の解決(愛)である。


この物語では、白雪姫の透き通るように美しい白い肌が象徴する「善」と、醜い物売りのお婆さんの姿を描いている黒装束が、「悪」を表現させている。この表現方法は、私たちにはまったく違和感の覚えない減り張りのある演出であった。けれども、広い会場には黒人の少女が数名いたが、彼女たちの心情は晴々としたハッピーエンドを迎えられたであろうかと、少しばかり心配になってきた。


白雪姫の髪の毛はブロンドではなく、艶やかな黒髪であることが強調されている。これはディズニー社が、初の長編アニメを制作するに当たって、メルティンポットの国で成功させるための配慮であったのかも知れない。そして人間の真の美しさとは外観で決定するものではなく、内面から滲み出る美しさ、即ち心の清らかさであることを昼食時に親子三人で話し合った。


丁度その折に、神様は私たちに粋な計らいを施してくださったのである。私たちのテーブルの近くを掃除していた黒人女性の名札を見ると、「SNOW」と書かれてあった。家内が、


「あなたのお名前ですか? 」


と問い掛けると、彼女はゆっくりと頷いた。


「綺麗なお名前ですね!」


再び家内がそう言うと、彼女は優しく破顔一笑させた。その笑顔の何と美麗なことか。


飽く迄も憶測に過ぎないが、彼女は子供の時分に、肌の色に反して名前がスノーであったが為に、随分と揶揄されたに違いない。ところが現在の彼女は、自分の名前が非常に気に入っているようであった。自信に満ちた彼女の表情は、まるで微薫の花びらを撒き散らかすかのように誇らしげであった。私はここに神の愛があると思った。そして家族三人で過ごすことの出来た休日に、心から感謝したのである。


次に『フランダースの犬』のアニメ・ビデオを、やはり自宅で鑑賞した。私は童話集や絵本で、この物語を知っていたが、ビデオで観るのは初めてであった。


この物語は全篇を通して、十歳の少年ネロと八歳のガール・フレンド、アロアの、穢れのない白銀のように美しい心から、人を愛することの大切さと、神様から愛されているという確信が描かれている。


終結はハッピーエンドで幕を閉じる『白雪姫』とは対照的であるが、悲しくとも死は終わりではないことを、『フランダースの犬』のクライマックスでは鑑賞している者の心に強く訴えていた。


ネロは大聖堂で、念願のルーベンスの『キリスト昇架』と『キリスト降架』の二枚の絵を観ることが出来た。やがてネロは熱い歓喜の涙を流すと、


「神様、僕はもう思い残すことはありません」


と呟く。ネロは両腕で犬の体を抱きしめると、


「ぼくたち、もうすぐイエス様に会えるんだよ。 …あそこで」


と言う。このネロの最期の言葉こそが、信仰と希望と愛を伝えている。


『フランダースの犬』は、70年代にテレビで毎週放映されていたが、最終回は30パーセントの高視聴率を記録したそうである。幼い頃から聖書を読むことや、クリスチャンとの交流が希薄な日本人にとって、純真無垢なネロの神に信頼を寄せる心と、愛に忠実なパトラシエ(犬)の願いが、この世で成就されない不条理に、心を痛めるばかりである。けれども、知っていただきたい。神様の壮大な愛の計画を……


小説にしろ、童話にせよ、外国の名作をより一層深く理解する為には、まず聖書を読むことが基本である。そして神のご愛が、同胞の心へと伝わってもらえたならば何よりも幸いである。





幸福




僕は末期癌で、ストロークで、半身不随で、言語障害で、全く役に立ちません。それでも僕は幸せだ。


不幸な病人があると同様に、幸福な病人もあるのである。病気は魂を解放して浄化するからだ。一度も病気をしたことのない者は、自己を十分に知っているとはいえない。


 


「末期癌笑顔を持って対峙する」





2010年12月13日月曜日

師走かな




今日、テレビで観た『坂の上の雲』で、正岡子規が亡くなった。お墓の上の方に、韓紅(からくれない)のもみじが寂しげに風に揺らいでいた。


もみじは水と良く似合う。池に落ちたもみじ、小川を流れるもみじには、動きのある清秋を感じ取ることが出来る。もみじと苔も、また良く似合う。苔に落ちたもみじは、僕を夢心地へと導く。そして、紅葉(こうよう)の大海原へといざなう。


季節はもう師走。北の国では、冬将軍の訪れもまぢかであろう。僕は冬の星が好きだ。冬の大気は澄みきっていて、凍てつく夜空に昴は鋭い光を放つからだ。


冬の植物で、一番気に入っているのが冬の梅だ。別名寒梅ともいう。「千駄木に隠れおほせぬ冬の梅」(正岡子規)


今日、フリーウェイから見たダウンタウンが、こよなく美しかった。雲ひとつない青空が広がり、大気が澄んでいたからだ。その光景を見た瞬間から、僕の心が欣快に栄えた。そして、一句浮かんだ。


 


「追憶に寒梅添える師走かな」





鬱造(うつぞう)




鬱造は16歳時、医師からうつ病と診断された。40年前のことである。往時は誰一人として、うつ病のことは知らなかった。うつ病という言葉は1990年あたりから、ちらほらと世に出始めて、1998年あたりから世間に定着し始めた。


鬱造は、入退院を何度も繰り返した。誰もがうつ病に理解の無い時代を生き抜いた。世間からは怠け者扱いにされ、変人扱いにされて、青春時代を過ごした。


現代では、会社も学校側も理解を示す。昔うつ病になった人は鬱造も含めて、現代のうつ病の人よりも、何倍も苦しみを味わったのだ。


鬱造は、うつ病が原因で離婚をした。離婚後しばらく経って、鬱造は渡米した。翌年クリスチャンとなって、鬱造はイエス様の癒しの御業によって、うつ病が癒された。





2010年12月12日日曜日

『おたふく』




日本の蕎麦(そば)屋に、勝るとも劣らない蕎麦屋がガーデナにある。屋号は『おたふく』。ウエスタンとガーデナ・ブルバードのコーナーに位置する。


僕は何時も決まって、掻き揚げざるそばの大盛りを注文する。せいろと十割蕎麦もある。『おたふく』の蕎麦は、アメリカ・ナンバーワンだと思う。


カテゴリー、ショート・ショートに書いている、掌の小説『蕎麦』を参考にしてください。


『おたふく』をモデルに書きました。





評決




自分でスピーチセラピーのメニューを毎日2回こなしています。それほど効果は出ていませんが、焦らずに気長く続けることが大切だと思いました。


今年に入って、裁判員裁判のニュースが報じられるようになりました。ここで疑念を抱きました。判決と違って、評決じゃないのかと。





雪しまき




昨日、病院へ行って来た。医師から、「食事制限は来年の一月末まで続きます」と言われた。僕の考えが甘かった。


今後の予定は決まっている。1月21日に入院して治療が再開される。抗がん剤は三ヶ月前から中止している。


 


「年明けに再度入院雪しまき」





2010年12月11日土曜日

名 前




先日、来米したばかりの知己から、同行の女性を紹介された。名前はミキミキ。


「愛称ですか」と、尋ねると、山村美樹さんが三木さんと結婚して、フルネームがミキミキになったと説明してくれた。


阪神タイガースの監督は真弓だが、真由美さんが真弓さんと結婚したらマユミマユミ。美和さんが三輪さんと結婚したらミワミワ、真紀さんが牧さんと結婚したらマキマキだ。


アメリカで珍しい性の日本人女性と知り合ったことがある。


「で、あなたのお名前は」


「材木屋です」


「お父さんの職業ではなく」


「ですから、材木屋です」


なんと、彼女の名字は材木屋だった。


 イタリア人の男性の名前にヨシコというのがある。ビバリー・ヒルズのロデオ・ドライブに、少しばかりくだけた貴金属店がある。ここの店長の名前がイタリア出身のヨシコさん。日本人観光客が店の中へ入っていくと、「わたしの名前はヨシコです」と、日本語で話しかけてくる。


観光客が笑い出したところで、店長は透かさず名刺を差し出して、自分の名前がヨシコであることを証明する。そこでまた観光客は笑い出す。てなぐあいである。


では、ここで大変珍しい日本人の性の一部を紹介する。


一番合戦(いちまかせ)、百目鬼(どめき)、仙人(せんにん)


音琴(ねごと)、目次(めつぎ)、花子(はなこ)


人首(ひとかべ)、宇宙(うちゅう)、九(いちじく)


 


 





2010年12月10日金曜日

揺れている語句




大(だい)と大(おお)の読み方については、原則として「大」のあとに音読みの語句「漢語」がくると(だい)、訓読みの語句「和語」であると(おお)と読むのが一般的。


NHKでは「大地震」を(おおじしん)と読ませているので、各民放も右に倣って「おおじしん」と読んでいる。NHKの『ことばのハンドブック』によると「大地震」の場合は正しくは「おおじしん」であるとの明記がある。


ここで日本放送協会に質問がある。「大震災」はだいしんさいと読み、おおしんさいとは読まないので煩わしい。NHKはよほどじしんがあるかと見えて頑なに「おおじしん」と読みつづけている。


「だいじしん」か「おおじしん」か、この揺れている語句の読み方については、読者の判断にゆだねることにしたい。


 





ペンネーム




高校二年生の時、日頃口数の少ない現代国語の先生が、授業中、黒板に大きな字で石川豚木(ぶたぼく)と書き損じたので大爆笑となった。


文学にあまり関心を示さない当世の若い人たちの中には、島崎藤村や永井荷風のことを「しまざきふじむら」、「ながいにふう」と読む者がいる。


ラジオのアナウンサーが名前を読み間違えて以来、藤本義一(よしかず)が(ぎいち)になり、松本清張(きよはる)が(せいちょう)と呼ばれるようになった。有名になると水上 勉(べん)、川端康成(こうせい)のように、有識読みといって音読みされることがある。


長谷川辰之助は子供の頃に実父から「くたばってしめえ!」とよく叱責されたので、二葉亭四迷(ふたばていしめい)とペンネームをつけたことは有名である。


近所の猫が窓から、ふらっと姿をあらわす度に「おー、ヘンリーじゃないか」。習慣のように口から出る猫の名前が、そのままペンネームになったのが、O・ヘンリー。


社会主義者の雄レーニンはなんと150にも及ぶペンネームを使い分けていた。


 


 





食事制限




食事制限が、予定していたよりも早く終わりそうです。クリスマスとお正月には、ご馳走が食べられるかな。予定は未定。


 


「クリスマスJoyの花咲くおめでとう」





カタリナ・バー・アンド・グリル




ハリウッドにあるジャズ・クラブだが、イタリア風の料理が佳味である。ジャズを聴くのが主流であるので、料理に関しては、あまり力を入れてないかと思いきや、なんの、なんの。


純粋なレストランよりも、味付けと盛りつけの趣向を凝らすのに、気を使っているのが伺える。パスタも魚料理も美味。僕が何時もオーダーするのは、アペタイザーにフライド・カラマリとメインにロック・オブ・ラム。シュリンプ、スカンピリ・リグイニもお薦め。ワイン・リストも充実している。


先ずは、ホームページでカレンダーを調べて、お気に入りのミュージシャンが決まれば、チケットを購入して、いざ、出陣。


Catalina Bar & Grill
www.catalinajazzclub.com/





現代書冊考




休日を利用して家人と一緒に書店へ出向いた。本屋を何軒か回ってから、古本屋にも足を運んで、結局11冊の絵本と童話を購入した。


早速、娘(4歳)に読み聞かせをしたのであるが、その後で、解説のところを読んでみて、児童文学を研究している大学教授が、トルストイの文学は人間愛に基づく人道主義に貫かれている。と語っていたので、些かがっかりとさせられた。


人間愛に基づく文学作品をひと言で表現する場合に、人道主義が貫かれているというのは、あまりにも概念的で表象的ではない。この場合は、少なくとも博愛、もしくは相愛主義に貫かれていると解説文を改めてほしかった。


少なくともと前置きをしているのは、博愛主義や相愛主義、或は汎愛主義であると解説書に明記をしても、完璧な解説には至らないからである。即ち、「人は何によって生きるか」、「イワンのばか」、「パンのかけらと小悪魔」など、トルストイの一連の文芸作品には、キリストの愛が色濃く貫かれているのだ。と断言しなければ、的確な評釈として認めるわけにはいかない。


日本の一流出版社が発行している世界文学全集の解説を読むと、文芸評論家の面々が的外れの論評を縷々と語っていることがある。その最たる要因は、欧米の作家や詩人たちが聖書を通して、神の摂理を如何に把握しているかということに、目もくれないからである。せいぜいキリスト教文化の影響下で過ごしていた。と考察するのが関の山である。


わが国の文芸人は、聖書を一度や二度は読んでいるであろう。また、神学を深く追究している文人も、寡少ながら存在するものと思われる。けれども、文学者特有の懐疑精神があまりにも旺盛なために、トルストイにしろ、ドストエフスキーにしろ、あるいはソルジェニーツィンであれ、これらの文学作品を講評する際に、信仰と文学を隔離してしまう傾向が窺われる。


平たく申し上げると、原作者の信仰とキリストの教えが、文芸評論家には全く理解し得ていないので、荒唐無稽の説に陥ってしまっている。


さて、数年前に、『ダ・ヴィンチ・コード』の話題で盛り上がったことがあるが、物議が大きくなればなるほど作家や出版界の商業主義に、世論は益々翻弄されてしまうことになる。だからと言って、カソリックの諸教会や組織、そして信徒たちが、馬耳東風を決め込めば、世間一般に対して誤解を招きかねない事態となる。


物語はフィクションであると周知していても、熱心な読者諸氏は事実よりもフィクションの方が真実であると思い込むようになるからだ。世の中というものは、歴史の事実を証明する文献よりも、現代の流行作家が仕立て上げたフィクションを、信じようとする傾向があるようだ。


例えば、史学の学術論文が証明している歴史上の人物の生涯よりも、大河ドラマで描かれている家康や秀吉、あるいは信長の生き様が強く印象に残り、事実と混同させながらも、とどのつまりはフィクションのストーリーを信じてしまっている。


生前、司馬遼太郎さんが歴史小説を発表する度に、歴史学者や郷土史家たちから抗議の手紙が殺到した。いわんや、司馬さんが描くストーリーや時代背景に対して、学者たちは事実無根であると訴えるのである。


その度に、司馬さんは判子で捺したように、「私が書いているのは小説です。フィクションなのです」と、弁明された。


『ダ・ヴィンチ・コード』にしても、小説が出版された折よりも、映画が封切られた時の方が事態は深刻である。それほどビジュアルの影響力は大きいのである。しかし、どのようなデマが飛び交おうとも真実はひとつしかあり得ない。それは、聖書に書かれていることだけが唯一正しいのである。


 もはや情報化社会は日進月歩である。ネット上で本が購入できる時代である。出版業界は手を替え、品を替えて、ありとあらゆる手段を駆使して営利主義のみに奔走する。その先陣がベストセラーと呼ばれている書物の数々なのである。


「ベストセラーとは、凡庸な才能を鍍金した墓場である」と述べた泰西の偉人がいたが、古典や近代に、ごまんとある名著を差し置いて、現世の低俗なベストセラーばかりに心を奪われる老若男女はおろか、世の中で先生と呼ばれている指導者的立場にある人物が、ベストセラーであると謳われている書物に、うつつを抜かしているのが現状だ。


本にまつわる格言で、好きなのがある。「古木は燃すべく、古酒は飲むべく、旧友は信ずべく、古書は読むべきである」。


その古書とは、現代人に生きた言葉を伝えている永遠のベストセラー、聖書に置き換えることができる。私は、聖書こそが世界文学全集の第一巻に、最も相応しい書物であると信じている。何故ならば、まずは知識として聖書を読み始めることによって、神の言葉の全てが、始まろうとするからだ。





2010年12月9日木曜日

励ますことの大切さ




言葉の乱れが指摘されて久しいが、その起因の一つに、私たちは日頃から、ささやかな心づくしを怠っているのではないだろうか。


「丸い玉子も切りようで四角、ものも言いようで角が立つ」これは都々逸の一節である。ドイツの詩人ハイネは語っている。「言葉が生きていれば小人でも軽々と運べるのだが、言葉が死んでいれば、どんな巨人だってまともに起すこともできない」


言葉ほど人の心を傷つけ、反対に愛情を育むものはない。英国の詩人ロバート・ブラウニング(1812~1889)には病弱の妻がいた。何一つとして妻らしいことを夫にやってあげられない妻のエリザベスは、夫に対して終始申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


ロバートはそんな妻の思いを察して、「君は、まるで天使だ」と言って励ましつづけた。エリザベスは夫の優しい言葉に感謝するものの、所詮、それは慰めの言葉に過ぎないのだと感じていた。


けれども、ロバートは「君は天使だね」と言う囁きを日々忘れなかった。晩年、エリザベスは姉妹に手紙を出している。その一行には「私は、本当に天使になったように思えてきました」と綴られている。


言葉づかいや礼儀の基本は、思い遣りにあると思う。他人に対してだけ礼儀正しくするのではなく、家庭や夫婦の間に於いても、慈しみを怠らないように心掛けていきたいものだ。


担任の先生から落ちこぼれの烙印を押されたA君は、落胆して家路についた。家に帰ってから母親にそのことを話すと、お母さんはA君の話に耳を傾けて、静かに聴き入った。そしてお母さんはA君に向かって言った。「息子よ、おまえはわが家の天才だ!」


あの発明王エジソンも、不登校の落ちこぼれだった。そして、後に天才と称賛されるようになった。以来、母親は、A君のことを「わが家の天才」と呼んで励ましつづけた。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 





神 様




日米のサービス業務を比較すると、サービスを施す側とサービスを受ける者との立場が、ほぼ対等であるのがアメリカであるが、お金を落としてくれる客に対して、まるで奴隷のようにこき使われているのが日本である。


日本の一流ホテルに勤めて二十五年になる知人が、米国での駐在期間を終えて昨年の暮れに帰国したが、歓送会の席で、このようなことを私にこぼしていた。


「お客様は神様です」と言って、一世を風靡したのは歌手の三波春夫さんだが、ファンにとって、これ以上の殺し文句は無い。だが、この流行語は、客の我が儘を益々助長させることになってしまった。


客に向かって一体その態度(口の利き方)は何だ。とはよく耳にする言葉である。言い換えれば、恐れ多くも神様に向かって何たることだ。ということになる。


お金をたくさん使ってくれる神様の機嫌を損なわないように、日本の商人(あきんど)は手揉みをしながら、腰を低くして、接客に従事するのである。


また、その道を究めた雲の上の人を、○○の神様と呼んで尊敬することがある。


 


経営の神様・・・松下幸之助


小説の神様・・・志賀直哉


憲政の神様・・・尾崎行雄


野球の神様・・・川上哲治


金儲けの神様・・・邱 永漢


特撮の神様・・・円谷英二


モダン・ジャズの神様・・・チャーリー・パーカー


フラメンコ・ギターの神様・・・パコ・デ・ルシア


サッカーの神様・・・ペレ








夫の定年退職後、離婚する夫婦が急増している。仕事以外、何に対しても興味を抱かなかった夫は、離婚してから益々時間を持て余すことになる。一人身となった熟年の男は、後に物価の安い東南アジアへ移住した。退職金で高級コンドミニアムを購入すると、メイドまで雇用して、海外で悠々自適の年金生活を送ることになった。


それでもまだ経済的に余裕がある。熟年の日本人男性の目的は、現地の若い女性を侍らせて、何とハーレムを築くことであった。間もなく、団塊の世代が定年退職を迎えようとしている。巷の声によると、海外にハーレムを築くための斡旋業者が、てぐすねをひいて待機しているという。


高度経済成長の真只中にあった頃、日本人はエコノミック・アニマルであると陰口を叩かれた。今度はセックス・アニマルとでも揶揄されるのだろうか。まったく、何という体たらくに陥ってしまったことか、恥ずかしい限りだ。


「旅の恥は掻き捨て」というのは、旅先で、すこしくらいの恥は、お互いに気にかけないことをいう。ところが海外へ出てしまうと、周囲に気遣うことを全く感じなくなってしまうのか、顰蹙(ひんしゅく)を買うようなことでも平気でやってのける。困ったものだ。


不品行が明るみに出てしまった場合に、本人も世論も「恥」として処理しているようでは、真の問題解決には至らない。日本の国は「恥の文化」である。と語ったのはベネディクトだが、あまりにも「罪」の意識が稀薄である。


インターネットに目を向けると、児童ポルノの画像が氾濫している。そのマーケット・シェアの七割が、日本から発信されているというから、今や日本は児童ポルノ大国に成り下がってしまった。


アジア諸国では、日本人旅行者による児童買春が横行している。政府は人権侵害など、厳しい国際批判に対応するために、児童買春禁止法を一九九九年になって、ようやく可決した。お上の過重腰には、羞恥の念が微塵も無い。


恥は掻き捨てることは出来るが、罪は心の底から悔い改めなければ、許されるものではない。


 


 





飛ぶ鳥を落とす勢い




師走に入って、未明から朝にかけて寒い。精神力もいささか弱り果てている。体力も減退。食事制限が大きく起因している。健康な時には、食べることが生きがいだった。食道楽、食通を自負。


90年代前半には、飲み食い(接待費を含む)にひと月平均7500ドルを使った。往時、僕の会社は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。





2010年12月6日月曜日

超美味い、オリジナル・チキンカレー




タイ料理のレストラン『チャンダラ』は、以前はハリウッドの東はずれにあったが、インターネットで調べたら、ウエスト・ロサンジェルスに引っ越しをしていた。


最初は、タイの友人に教えてもらったのが30年前になる。ランチで利用するなら超美味い、オリジナル・チキンカレーがお薦め。往時、日本のレストラン関係者と、チキンカレーを食べたら、原宿でやれば間違いなく繁昌すると言われた。今では渋谷あたりかな。


ハウス・スペシャルとして、ロースト・ダック、シーフード・ラッドナもお薦め。今迄に入ったタイ・レストランの中で、一番、滋味豊かなレストラン。


超美味い、オリジナル・チキンカレーに感動すること間違えなし。太鼓判。





NHK




NHKの番組『あさイチ』を見ていたら、「日本の美、紅葉」と画面に文字が出た。僕は、晩秋の美、紅葉と間違えているのではないかと思った。


北米、欧州あたりでは、日本よりもダイナミックな紅葉が見られる。日本では紅葉で有名なところに、京都の嵐山がある。アメリカのノースイーストに行けば、日本の100倍以上の紅葉が満喫できる。


話は変わって、作詞家、星野哲郎さんが亡くなったと、NHKのニュースで報じられていた。アナウンサーは詩人、星野哲郎と言いましたが、そりゃ、広い意味では詩人かもしれない。僕の個人的な意見として、作詞家と詩人とは全く別だ。作詞家は職業として成り立つが、詩人は成り立たない。





2010年12月5日日曜日

KFCよりも美味しいフライド・チキン




奴隷時代、白人の主人が食べ残した料理を、もう一度焼き直して或いは揚げて、料理をし直した物をソールフードという。その代表としてフライド・チキンがある。


ロサンジェルスで美味しいフライド・チキンと言えば、何といっても『ロスコ’ズ・ハウス・オブ・チキン・アンド・ワッフル』。(Roscoe’s House of Chicken and Waffles)日曜日の午後になると、教会帰りの黒人たちのたまり場となる。LA近辺に5店舗ある。


スパイシーなフライド・チキンが、お好みの方にお薦めなのが、ケイジャン風『ルイジアナ・フェイマス・フライドチキン』。(Louisiana Famous Fried Chicken)僕は30年前に最初に食べた。その感動が未だに忘れられない。外側はカリッとしていて、中身はこの上なく、ジューシー、噛むと肉汁がしたたり落ちる。カリフォルニアを中心に90店舗点在している。





2010年12月4日土曜日

スピーチセラピー




術後、二か月が過ぎた。スピーチセラピーのお陰で、徐々に食べやすく、飲み込みやすくなりました。喋り方もほんの少し、滑らかになったような気がする。何はともあれ、イエス様に感謝。


来年までには、相当改善しているだろう。食事制限も終わって、ご馳走を食べやすくなって頂けることでしょう。





スカッと爽やか




食事制限の一部を伝える。海で獲れるものは一切だめ。即ち、魚介類、海藻。海で獲れた加工食品、カマボコ、ちくわ、たらこ、干物も駄目だ。


調味料は胡椒だけは良い。はちみつも良い。ニンニクも良い。飲み物は乳製品が駄目。以外と思うけれど、コカ・コーラは許可が下りた。


コークを飲めるのは救い。スカッと爽やかコカ・コーラ。





2010年12月3日金曜日

鮨屋のかんぱち




ロサンジェルスで、リイーズナブルかつ美味い鮨屋が『かんぱち』だ。ここ店の板前は、日本より召集されている。銀座の『かんぱち』の姉妹店である。


場所はガーデナ。アーテジアとノーマンディーのコーナー、ゲイトウェイ・プラザにある。ネタの大半は築地から空輸で仕入れられる。ビバリーヒルズの鮨屋で同じものを食べたら、値段が三倍はする。


カウンターに座れば、僕は最初に酒の肴を注文する。特製いかの塩辛、なれそれ(アナゴの稚魚)の空揚げ、生湯葉の刺身。


僕が好きな鮨ネタは、春であれば子持ちの蝦蛄(しゃこ)、鯛、さよりetc。それから、しんこ、かんぱち、ひらまさ、トロ、あなご、赤貝のひも、青柳、貝柱へと続く。赤貝の肝は、後ですましにして飲む。


最後の閉めは鉄砲、かんぴょう巻きに山葵を入れて巻いたもの。僕が腹いっぱい食べて、飲んで150ドル。ネタよし、味よし、値段よし。




鮨屋のかんぱち
1425 W. Artesia Blvd. #27
Gardena, CA 90248
TEL: 310–515–1391





2010年12月2日木曜日

ダックハウス




LAのダウンタウンから、車で東へ15分行った所にモントレーパークの街がある。この街にあるのが、北京ダックの専門店、その名を『ダックハウス』と言う。


LAの殆どの中華料理店が、饅頭の様なBanを使う広東風。『ダックハウス』は、薄い皮で巻く北京スタイル。


僕は小人数で行くので、北京ダックとスープしかオーダーをしない。スープはシーフード蟹肉入り冬瓜スープ。お腹がすいたら、シェフ・スペシャル・チャーハンを注文する。


北京ダックの身は瑞々しく、皮はこの上なくパリっと仕上がっている。病みつきなること受け合い。


珍しい美味なるメニューが沢山あるので、レストランのホームページで、下地をつけて行くとよい。








以前にも書いたが、闘病生活に入って本を読まなくなった。目が疲れるのだ。インターネットであれば、文字が拡大できる。本は、そのような訳にはいかない。虫眼鏡を片手に読むが、限度がある。


大病して更に集中力が無くなった。食事制限も影響しているのか分からない。





白い時




愛する人よ


いとおしい子よ


壊れた愛よ


ぼくは 今


さびしくて


さびしくて


たまらない


 


まだ見たことがない


白の白い世界には


真実だけが存在している


 


この上なく柔らかい


白い白の時空には


愛のさざなみが


ぼくのすべてを白よりも白くする


 


ああ


白き愛を感じる時なのか


祈れる白い世界


白い時よ


 





加川文一の散文を読んで── 文一が標榜している「具躰」をどのように解明すればよいのか ──




加川文一は人生が面白いように、人間が面白いように、また、生活が面白いように詩は面白い。と、随筆集『置時計』のなかで綴っている。そして文一は、面白いとは、ものの具躰にふれて心を動かされた時の、こころの状態である。と釈義している。


文一は詩作に興じる時の心得として、具躰というものを非常に尊重していたようである。詩は一見抽象的であるが、優れた詩の特徴は、美の具躰を追求して止まないと断じている。而して文一は、美の追求には凡そ二つの道があるようだと述べている。即ち、一つは知性によるものであり、もう一つは感性によるものであると道破した。


文一は物事の本質を捉えることによって、具躰の叫びと真実の在り方を突き止めようとしていたのであるが、文一が主張している「具躰」というものについて、私は些か合点が行かないのである。


具躰とは、即ち抽象の対義語となる具象のことであるが、例えば、文一が活躍していた二十世紀半ばのリアリズム(自然主義)は、極美であるとか真実の写実を追求するだけでは、創造性を欠落させていると思われた。


従って本来の「具躰」というものは、対象となるモティーフやテーマを思惟活動によって解体分析しながら、その本質をつかむための抽象行為を行なわなければならない。そしてさらに、抽象化された表現を損壊しながら、もう一度、具象性を注入するのである。端的に言えば、具象→抽象→再具象の手法によって、より深みのある創造が表白されるのである。


次に、知性と感性についての問題であるが、前文に記しているように、文一は美の追求には凡そ二つの道があると述べているが、その二つが知性と感性である。文一は前もって凡そと断りを入れているが、私は美の具躰を追求しながら、詩を吟じる上で不可欠なものの一つに、形而下に属しているかも知れないが、「直観」(インスピレーション)というものをもう一つ付け加えておきたい。


文一はまた、難解な詩のことを独り善がりの安易を示していて、詩とは凡そ縁の遠いものである。と強く非難している。比して表面解りやすい詩こそが、読者を深淵の前に立たせるのであると喝破するのであった。


文一の詩の定義は、畢竟するに具躰を追求することによって、より明解な詩が描けるが、抽象は難解であって、晦渋な詩は本質的にはたわいのないものであり、芸術とは無縁であると言うのである。


どうやら文一には具躰のなかの抽象、あるいは具象から抽象、そして再具象の観念が把握されていなかったようである。


同じく『置時計』(随筆集)のなかの一節で、文一は「知性」の概念を明らかに曲解している箇所がある。文一は「知性」の究極は超現実であると説いている。文一が言わんとしている超現実の意味が、今一つ良く理解できないのであるが、それがシュールレアリズム(超現実主義)であるとすれば、謬見も甚だしい。


文一は師と仰ぐウヰンタースの初期の作品にふれて、詩人とはかくあるべきものであると断言しているが、私はその一句を読んでみて戸惑いを隠せなかったのである。


 


吾は眼をもたず


吾が一撃は狂はず


 


ウヰンタースの詩の一句は、言わば文一の座右の銘である。けれども「吾が眼をもたず」という言辞の意味は、「具躰」を否定することである。また、眼をもたずして一撃に狂いがないということは、「知性」をも打ち消していることになる。


文一はホイットマンやエマーソン、そしてポーやブレイクといった米国及び英語圏の詩人の作品を主に味読していたようであるが、ボードレールやリルケ、そしてヴェルレーヌやランボーなど、欧州のデカダンスの詩人たちによる作品からは、殆どといってよいほど影響は受けなかった。情報の乏しかった往時の時代背景や、翻訳書の寡少な時世において、十四歳でカリフォルニアに渡ってきた文一においては、英語圏の、取り分け米国の詩人たちに深く興味を抱いたに違いない。


また、具躰をしっかりと捉える文一の詩業は、イェイツに私淑していたからこそ継承できた術なのであろう。このように考えると、文一の散文のなかで遭遇する詩論的境遇は、文一の周辺ではかなりヒップであったのかもしれない。


文一の詩を読み、しみじみと味わってみる限り、日常の何でもない具躰をしっかりと捉えていて、淡々と媚びながら読者を惹きつけているのである。この一種のメソッドこそが、一度捉えた具躰を凝縮したり、破壊した後に、観念的な普遍の眼でつかまえておいてから、再び具象の仕事に入って行くのである。この表現方法には、文一自身も気づくことはなかったのであるが、詩人、加川文一は、無意識のうちに自我の前に、人工的に緻密な「霧」(眼力)を投げていたのである。この「霧」こそが、具躰を超越している概念であり、具躰を凝視するための抽象であった。


従って文一が否んだ思弁的洞察は、詩作の段階で瞬時に反芻されてしまい、詩人の魂は鋭く、美の「具躰」の追求へと移行していくのである。





2010年12月1日水曜日




いろはかるたには『江戸かるた』と『上方かるた』の二種類がある。


『江戸かるた』の「い」は、「犬も歩けば棒にあたる」


『上方かるた』の「い」は、「一寸先は暗(やみ)」


『江戸かるた』の「い」の図柄は、棒に当たった犬が痛々しい顔をして、


キャンと鳴いている。


「犬も歩けば棒に当たる」とは、でしゃばるから禍に遭う。または反対の、


出歩いていて意外な幸運に出くわすこともあるの意味。その時の状況に応じて


使い分けていたが、近年では積極的に行動すれば道は開ける。と言った


意味で使われることが多い。


 


 


クイズ


(その1)


馬の耳に念仏、猫に小判、猫に石仏、牛に経文、豚に真珠、


これらの意味は「値打ちの解らないこと」である。


次の四角の中に文字を入れて俚諺を作りなさい。 犬に□□


 


(その2)


柴イヌと読むのか、柴ケンと読むべきか? 犬種によって呼び方が違う。


イヌとケンの区別をしなさい。


 


柴犬、土佐犬、秋田犬、北海道犬、紀州犬、樺太(カラフト)犬


 


 


【答え】


(その1)犬に論語


 


(その2)イヌ・・・柴犬、秋田犬、土佐犬


ケン・・・北海道犬、紀州犬、樺太犬


* 例外もあるが、基準として日本産犬種は「イヌ」、外国産犬種は「ケン」