2011年4月30日土曜日

風 景 ─ 純銀もざいく ─




─ 純銀もざいく ─


山村暮鳥


 


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


かすかなるむぎぶえ


いちめんのなのはな


 


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


ひばりのおしゃべり


いちめんのなのはな


 


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


いちめんのなのはな


やめるはひるのつき


いちめんのなのはな


 


ひたすらに「いちめんのなのはな」を連ねながら、状況が更に鮮明に浮かび上がるように、それぞれの連で一行の写実が挿入されている。この技巧は単なる風景の描出ではなく、最後の連で作者の心情を印象付けるための役割を果たしている。 


客観的に眺めた、長閑な、一面の菜の花畑が目の前に広がっている。そして空には、病める昼の月がある。この「やめるはひるのつき」であるが、実は隠喩であって、傷心の暮鳥自身のことを示している。


この麗らかな風景と、病み疲れている暮鳥との対比を、「いちめんのなのはな」は小波のように連なって詩全体を表白する。そして暮鳥の病める魂を無窮の春陽の中に閉じ込めてしまったのである。


山村暮鳥は貧しい家庭に育ち、明治三十五年(一九〇二)、十九歳の時に洗礼を受けている。翌年には神学校に入学して、卒業後はカソリックの伝道師となって活躍するが、病身ゆえに、四十一歳の折りに急性腸炎をおこして永眠した。


 





2011年4月28日木曜日

言葉の万華鏡




中国語講座


 


中国語で歩くとは何と言うのでしょう。


 


【正解】 走


 


同じく、トイレット・ペーパー、キャリア・ウーマン、ニュースは何と言うのでしょう。


 


【正解】 手紙   女強人   新聞





名前




リサのボーイフレンドの名前、何だったかなぁ。


チャビン、シビン、カビン、あっ、思い出した。


ケビンだ。





サンドイッチ




パパとママが左右から、Joyの顔を挟んでサンドイッチ・キッス


パパとママが左右から、Joyの身体を抱きしめてサンドイッチ・ハグ


Joyが善い行いをしたら、Joyの感性に敬意を表してサンドイッチ拍手


お昼寝の際に、川の字になってサンドイッチ・リバー


時折パパが真ん中に寝るので小の字になる


でも、言うことを聞かない時には、パパもママもピリリと辛い


だってサンドイッチは、マスタードが味を引き立てる


 





2011年4月27日水曜日

二流国への大門




アメリカに移民して来た者は、ドイツ人であれば教会を建て、イタリヤ人は酒場作り、日本人は学校を建てる。そのように語っているのは帰米二世の作家、山城正雄さんである。日本人は学校を建てるというのは、日本語学校のことだ。


ミツワのフードコートで、7年前に耳にした事である。アラフォーの女性が二人で話をしていた。僕は話を聞くつもりはなかったが、自然と話の内容が聞こえて来た。


「うちの子供たちは、国際人に育ってもらいたいから、英語だけを喋れたらいいわ」


即ち、日本語は必要ないと言うのである。


巷でも、教会の子供を持つ親の間でも、アメリカは英語で勝負、日本語など必要はありません。と言う意見が多数であった。


僕はがっかりとした。世界中どこの国でも、母国語を疎かにしている国は無い。近頃の日本人は、日本人のプライドを捨てたコンプレックスの塊だ。


現地の日本語学校に、僕は苦言を呈す。先ず、日本語を習得する意義について、保護者と児童を交えて、徹底的に話し合うことである。現地の日本語学校は厳しさが足りない。(厳しくすると生徒が学校を辞める。学校の運営が成り立たない。)


ある日本語学校は、デイケアー・センターと変わらない学校がある。授業中に騒いでも先生が止めきれられない。日本人の学力低下は、正しく二流国への大門だ!


 


 


 


 





絶望




「私は陰鬱の中でこの世を愛した。なぜならば、私はわが内に潜む陰鬱を愛していたから」。


これは不安と絶望の哲人、キェルケゴールの日記につづられている一文だ。


日本のある哲学者が、キェルケゴールの「陰鬱」の心境を察して、病的な傾向にあると論じていましたが、果たしてそうなのでしょうか。 


僕は神経症やうつ病に40年間も苦しまされていますが、近ごろは「安心して不安になれる」のだ。苦悩と絶望の日々を体験し続けていると、ふと、悟りの様な声が聞こえてくる。


晩年のキェルケゴールは、人間が人間らしく生きていくためには、絶望の境地に立たされることが、必要であると述べている。そのために人間は一度、死の問題と真剣に取り組むべきであるとも語っている。


今、人生に絶望して、死を考えている人は、すでに人生の苦悶を実践されているのだ。真の幸せは、安らぎのなかに存在していません。むしろ絶望の境地に芽生えてくるものなのだ。


 





2011年4月26日火曜日

転移も恵み




イースターの日に、3ヶ月ぶりに教会へ行きました。信徒の皆さんと、久し振りに楽しいひと時を過ごしました。改めてイエス様は、今生きておられると確信致しました。


僕の癌は甲状腺に端を発し、検査の結果、脳、首筋のリンパ、肺に転移していました。三ヶ月前の入院の折、新たに骨に転移していたことが分かりました。


転移も恵み、イエス様の愛に触れる時。イエス様は、僕をどのように癒してくださるのか楽しみだ。ハレルヤ!





2011年4月25日月曜日

鬼の目にも涙




僕には、これと言った趣味がない。趣味があれば楽しい。外に出て行くとしても、一人だけでは出て行けない。


コミュニティーのプールへ行くのも、YMCAに行くにも一人では行けない。誰かの手を煩わらわせずに、一人で行きたい。


江美子が電動車椅子を買えば、近くであれば一人で出て行くことが出来ると言う。しかし小型の自動車が買えるほど高い。


江美子が呟いた「メデキャルで全額カバーするはず」


僕は大きい声を上げた。


「10,000ドルするよ!」


江美子が忙しくて、未だに購入の手続きをしていない。5月になれば、江美子の仕事の量が減る。それまでお預けだ。


話は変わるが、今日、江美子と2分間位立ったまま抱擁をした。江美子は涙ぐんでいた。僕は鬼の目にも涙と思った。





リブアイ・ステーキ




またもやステーキの話題。『The Galley』のステーキは、日本の肉ように柔らかくてジューシーだ。


僕のお薦めは、一つしかない。リブアイ・ステーキが抜群に美味しい。喜色満面になるほどに味が良い。踊りたくなるほど美味である。





2011年4月24日日曜日

子供の読書と記憶力




若者たちの活字離れが顕著になって久しいが、米国では読書が勉学の基礎を形成しているとの識見が非常に強い。従って教師が課題に挙げる書物や、それらに基づいた書籍を読みこなす技術と読解力を、まず、身につけていかなければならない。そのためには乳幼児期からの読み聞かせや、読書の習慣が肝要なのである。 


育児書や子供の教育に関する本を読んでいると、乳児期からの読み聞かせの重要性を説いている項目が必ずある。また、テレビや雑誌などで、時おり見掛ける教育コンサルタントの専門家も、読み聞かせの習慣と読書好きな子供に育てることが、いかに将来の学業に有益であるかを力説している。


 ある声楽家がテレビで語っていたことであるが、オーケストラをバックにして歌えることは素晴らしいことであるが、例えば病院にお見舞いに出向いて、病床生活を続けている患者のためにアカペラで独唱したりすると、大層感激されて、その歌声がいつまでも患者の胸の奥深くに残るという。


読み聞かせの場合も同じであると思う。映画館の大画面で、音響効果や美しいメロディーが流れるアニメを鑑賞すれば、誰もが感動する。けれども、自分ひとりだけのために母親が語るモノクロの世界は、想像力を最大限に引き上げて聞き入ることになる。これほどスペクタルな環境は他にはない。


やがて文字が読めるようになれば、必ず音読する習慣をつけることである。それから、当世は低俗で有害な書物が氾濫している世の中である。書籍は慎重に選ぶことが肝心だ。自信がなければ専門家に相談されると良い。


筆者の方針は、短歌、俳句、聖句などを暗誦させた後で、音読の訓練を繰り返すことである。イギリスやここアメリカでも、シェークスピアのソネットを諳んじることは教養であり、感性を錬磨するために用いられている。


幼い時分から記憶の回路を構築させておくと、小学校に入学する頃には、子供は益々やる気を出してくる。こうなれば、もうしめたものである。


2000年の『子供読書年』から、「ブックスタート」という新しい試みが始まって以来、絵本の読み聞かせがブームとなっている。


この「ブックスタート」とは、イギリスで始まった「正しい読書」を奨励する運動で、乳幼児のための絵本と読み聞かせについて、詳しくまとめられている「ブックスター・パック」を、図書の専門家が一人ひとりの保護者に手渡しながら、アドバイスを施していくことを目的としている。


学生時代に、「読書の虫」と呼ばれている同級生がいた。彼は暇さえあれば読書をしていたので、いろんな分野において話題が豊富であった。ある日、一冊の本をめぐって、ぼくは彼と議論を戦わしたのであるが、彼は本の内容に関しては比較的良く理解しているのであるが、彼自身のものの見方や意見、そして思考力が希薄であった。ましてや想像力を膨らました斬新な所見ともなれば皆無であった。彼は活字をいち速く読みとりながら、筋書きを暗記する技術に熟達しているが、自分で考える力や想像力においては明らかに劣っていたのである。


さて、乳幼児期の読書の問題であるが、絵本などの読み聞かせは5、6歳ぐらいまでで一応打ち切って、それ以上の年齢になれば、なるべく絵の少ない本を読み聞かせるようにしたい。理由は、あまり絵にばかり頼りすぎると、その状況を想像させる思考力が解発されにくいからである。或は、絵本を読み聞かせる場合、この物語が次の頁ではどの様な展開になっているのか、頁を捲る前にしばらく間をおいて考えさせてみることが肝要である。また、親の見解も語り聞かせながら、意見交換を楽しむひと時をもつことは非常に有益である。


読書というものは読む速さを競ったり、読んだ本の数で優劣を定めたりするものではない。ショウペンハウェルは、読書とは他人の頭で考えることであると述べているが、自分の頭で考えることのできる人間へと成長するためには、前文の「読書の虫」のような読書家には、絶対にならないように気をつけてもらいたい。


また、絵本や児童書を読み聞かせる場合に、語り手となる母親もしくは父親の、朗読する技術と表現力が豊かでなくてはならない。例えば、登場人物によって声色を変えてみたり、文章に抑揚をつけて語ることである。


ぼくが幼い頃に、母親から絵本を読み聞かせてもらった記憶は殆んどない。絵本の寡少な時代でもなかったと思うのであるが、心覚えがあることは、一寸した挿絵のついた「イソップ」を何度も繰り返して読み聞かせてくれたことである。また、寝入り際に暗い部屋の中で語ってくれた母親の昔話は、固唾を呑んで聞き入ったものである。


或は、子供の頃に家族や友達たちと一緒に、何気なしに口ずさんだ「唱歌」の追懐に時おりひたることがあるが、これもやはりアカペラで歌っているので印象深く心に残っているのかも知れない。


出来れば物語を語る母親は、本を読まないでストーリーを予め記憶しておくか、即興で話しを組み立てられるぐらいの心構えであってほしい。即興が苦手であれば、前もって粗筋を用意しておけばよい。


従って、私たちの信仰生活も同じである。聖書の音読と聖句を暗誦することによって、大いなる恵みが得られるのである。


 





2011年4月23日土曜日

午後の静物




土曜日


静かな昼下がり


青空とグリーンと白


鳥たちは遊び 季節の花が美しい


まどろむ気候の中で


最近の僕はのんびりとやっているのです


 


僕には分かっている


汚染された灰色の空も


そして虹色の海も


僕を抹殺しようとしたのだ


 


病室の窓からいつも見ていた


あの


空よりも大きい巨大な拒絶の白壁が


きょうも僕のカラダの中を覗き込んでいる


ぶちた壁面は


どす黒い腫瘍を剥きだして嘲笑い


必死の思いで逃亡する僕を


わしづかむ


 


僕は逃げた


 


逃げても 逃げても


過ぎ去った空隙をぶち破って


蒼いシルエットが


すさまじい勢いで僕を吹き飛ばす


 


僕のカラダは


かたい塊となって


静止したまま


もう どのくらい生き続けたのだろう


 





2011年4月22日金曜日

みどり色の蛇




みどり色の蛇


大手拓次


 


仮面のいただきをこえて


そのうねうねしたからだをのばしてはふ


みどり色のふとい蛇よ、


その腹には春の情感のうろこが


らんらんと金にもえている。


みどり色の蛇よ、


ねんばりしたその執着を路ばたにうえながら、


ひとあし ひとあし


春の肌にはひつていく。


うれひに満ちた春の肌は


あらゆる芬香にゆたゆたと波をうつている。


みどり色の蛇よ、


白い柩のゆめをすてて、


かなしみにあふれた春のまぶたへ


つよい恋をおくれ、


そのみどりのからだがやぶれるまで。


みどり色の蛇よ、


いんいんとなる恋のうづまく瞳は


かぎりなく美の生立(おひたち)をときしめす。


その歯で咬め、


その舌で刺せ、


その光ある尾で打て、


その腹で紅金の焰を焚け、


春のまるまるした肌へ


永遠を産む毒液をそそぎこめ。


みどり色の蛇よ、


そしてお前も


春とともに死の前にひざまづけ。


 


 


大手拓次は、大正期に活躍した詩人であるが、四十六歳(昭和九年)で歿するまで、一冊も詩集を上梓しなかった。


翌年、処女詩集『藍色の墓』を自費出版。編集を逸見 亨が担当。序文に北原白秋。跋文に萩原朔太郎が寄稿した。 


大正期の詩人は、定職には就かないで、自由無頼な起臥(きが)を過ごしていたが、拓次は東京ライオン歯磨本舗の広告部に勤める忠実なサラリーマンであった。


原 子朗は、拓次の口語象徴詩の手法はボードレール『悪の華』へのフランス語による惑溺(わくでき)であった。と述べている。


『みどり色の蛇』を閲読してみると、ボードレールからの影響を色濃く受けていることが理解できる。従って病弱であった拓次は、生と死の交錯する妖しくて幻想的な世界に、自らのイマジネーションを昇華させる以前に、ボードレールの『悪の華』を徹底的に瞠目(どうもく)していたのである。


やがて拓次は今まで培ってきた抒情的妄想を劫火の中へと葬り、フランス象徴詩を道標として開花させた。


その代表作品の一つである『みどり色の蛇』は、真にみごとな詩であると思う。





身だしなみ




真夜中に、B子のアパートが火事になった。アパートの住民は皆避難した。B子は熟睡しているのかと住民は心配した。B子の声が聞こえる。やけに落ち着いている。


「ちょっと待ってください。今行きます!」


刻々と時間が経つ。住民たちは気が気でない。B子が火の粉にまみれながら外に出た。


「化粧をしていたもので」


 


B子は人と会う時、必ず厚化粧をする。今迄に化粧をせずに人前に出たことがない。


 


 





2011年4月21日木曜日

至極の酒処




至上の串焼き、激うまの極致、やみつき必至。豚モツの串焼き『焼とん・北新地たゆたゆ』。 


一串160円前後、焼鳥もある。豚の刺身が食べられる店、『焼とん・北新地たゆたゆ』。


大阪市北区堂島1-4-8 広ビル1階   06‐6341‐1810   定休日 日曜





屍(しかばね)




僕は闇夜に浮かんだ黒い星


生かされるのか 失命するのか判らない


ヘドロの様な血を吐き 汚染された咳をして


きょうもあしたも


飼い殺しにされた 屍を見るがよい





2011年4月19日火曜日

今、僕は生きている




脳梗塞で倒れて半身不随と言語障害、おまけに癌が4ヶ所から発見された。余命半年と宣告を受けた時、日頃、弱虫な僕は不思議と怖くはなかった。


脳と首の大手術に臨む際、心が平安であった。


イエス様の癒しを信じているから、例え死んでもイエス様の許に行けることを知てるから、僕は御心のままに導いてくださいと祈った。


あらゆる艱難を乗り越えて、祈って、祈って、倒れてから2年と6ヶ月が経つ今、僕は生きている。イエス様に生かされているのだ。 


三位一体の神様に感謝したい。





浪速の寿司




大阪すしの名店、船場・淡路町の『吉野鯗』(よしのすし)。箱寿司、棒寿司、蒸し寿司。僕はこの店の箱寿司が逸品だと思う。浪速のきずしも絶品。


浪速の寿司、『吉野鯗』へおいでやす。





2011年4月18日月曜日

エリック・ドルフィー




僕が中学生の頃、ポール・モーリアが好きだった。高校に入学すると、ブラス・ロックにのめりこんでいった。間もなくして、ジャズに目覚めた。


最初に買ったジャズのレコードは、マイルス・デイビスだった。18歳の時に中古のクラリネットを購入した。19歳なってテナー・サックスを購入。


アメリカに渡って、Pawnshop(質屋)で中古のアメセル(サックス)を見つけた。チャ―リ・パーカーが使っていた、同じタイプのキングのアルト・サックスを、やはりPawnshopで見つけた。僕の記憶では3000ドル。


僕が好きなジャズ・ミュージシャンを5人選べと言われると、先ず、キャノンボール・アダレイ(アルト・サックス)、エリック・ドルフィー(バス・クラリネット)、マイルス・デイビス(トランペット)、ジョー・モレロ(ドラム)、ベティー・カーター(ヴォーカル)。


今回は、エリック・ドルフィーの名演奏をご披露致しましょう。







セーブ・マネー




僕がアメリカに渡って、一年ほどたってからガール・フレンドに巡り会った。同じアパートに住んでいた女性で、父は中国人、母はイギリス人のハーフである。


週末に、シィーナとデパートに赴いた際、スカーフ売り場の所で彼女は立ち止った。彼女が躊躇しているのに、僕はいち早く気がついた。シィーナは水玉のスカーフを気に入ったらしい。僕はシィーナにスカーフを買ってあげた。


シィーナが突然、笑顔で僕に飛びついて来て、僕のほおにキスをした。日本男児としては、公衆の面前で女性にキスをされる事は、日本の国では皆無と言ってよいだろう。僕の顔はすっかり桜色に染まってしまった。


或る時、管理人のスーザンに言われた。1ベッド・ルームに二人で住むと、セーブ・マネーになる。僕たちは共にシングル・ルームで暮らしていた。


シングル250ドル、1ベッド350ドル、二人で住めば確かにセーブ・マネーになる。シィーナは住む気があるが、僕は断った。


シィーナと映画を観に行った日に、僕たちは夜遅くに帰宅した。僕は彼女の部屋まで送って行った。シィーナは部屋の明りをつけた。泥棒が入った形跡がある。シィーナはベソをかき取り乱している。


挙句の果ては僕に八つ当たりだ。「一緒に住んでいたら、泥棒には入られなかったわ」


シィーナは、怖い、気持ち悪いと言って、僕の部屋に泊ることになった。


シィーナが呟いた「二人でシングルに住むと、更にセーブ・マネーよねぇ」





2011年4月17日日曜日

不安




本日、にわかに不安感に襲われた。いろんな思いが込みやげてくる。この先、生きるべきか、死ぬべきか。


イエス様は、心に平安と喜びを与えようとしているのに、神の御心ではないと祈ったら、不安がたちどころに消散した。





京の昼餉(ひるげ)




僕が小学校中学年から、青年期にかけて京都の街を散策するのが好きであった。小学生の頃、父とよく京都へ赴いた。昼時になると平安神宮の『六盛』。円山公園の『いもぼう』南禅寺の『順正』に足を向けた。


昼食はいずれかで頂いた。最も多く行きつめたのは『六盛』であった。名物の手おけ弁当を食した。『いもぼう』では、いもぼう御膳。『順正』では湯豆腐と天ぷらを頂いた。


以来、友達と京都に足を運んでも、ガール・フレンドと出向いても、いずれかで昼食を味わった。


目をつむると、『六盛』に向かう道程で、平安神宮の朱色の大きな鳥居が、見えたような気がした。





2011年4月16日土曜日




看護師のAは、病院の隣にある看護寮に住んでいた。夕刻の交代まで少し時間があったので、


布団を敷かずに畳の上で転寝(うたたね)をした。 


寝過ごしに気がついたAは、直ちに着替えて化粧もせずに飛び出して行った。息を切らして同僚に謝るA。


同僚たちはAの顔を見るなり、笑い転げた。Aは鏡を見た。頬っぺたに畳の痕がべったりと付いていた。





文学散歩




テレビを見ていたら、歴史を散策する番組が始まっていた。舞台になる所は兵庫県西宮市。僕はこの番組見ながら、懐かしさがこみ上げてきた。


と言うのは、僕が二十代半ばの頃に、関西を中心に文学散歩の講師をしていたからだ。僕は拡声器を肩にかにかけて、要所、要所で立ち止まっては解説をした。参加者は200人近くいた。


一番思い出深いのは、『芥川龍之介、羅生門再考』と題して、洛南(京都)の街を歩いたことである。散歩が終わってから料亭で新年会が始まった。


現在は、大阪文学振興会事務局長の横井三保さんが、関西文学散歩の会の代表を務める。三保さんは僕が編集者時代の先輩。大阪市立五条小学校の先輩でもある。


『大阪文学散歩?』(関西書院)は、僕と三保さんの(その他の講師も含む)共著でもある。





2011年4月14日木曜日

どちらが?




リンゴとイチゴ どちらが赤いだろうか


ライオンとトラ どちらが強いだろうか


バラとユリ どちらが美しいだろうか


向かいのオヤジと隣のオヤジ どちらが頑固だろうか


隣町のスーパーと地元のスーパー どちらが安いだろうか


吉本興業と松竹芸能 どちらが面白いだろうか


帝国ホテルとホテルオークラ どちらが高級だろうか


僕の嫁はんと近所の嫁はん どちらがはんなりとして綺麗だろうか





滋賀の都




滋賀の都は隠れた観覧の地。名所、旧跡が数多くある。京都、奈良と違って、一味違った侘び寂を体感できる。


守山市に江戸後期の佇まい中で、食事が出来る所がある。その名も『門前茶屋・かたたや』


寄せ鍋と鹿児島産ジャポーン鶏の、料理の数々が美味い。関西には美味しくて、廉価なレストランが数多である。





メランコリーによせて




おまえからのがれて


ぼくはぶどう酒と友らのもとへ走った


おまえの暗い目つきがこわかったから


恋の思いにゆすられ楽器の音をきいて


不孝者のぼくはおまえを忘れたのだ


 


けれどもおまえは


だまってぼくのあとについてきて


ぼくがやけに飲みちらす酒のなかにいた


うちつづく愛の夜のむし暑さのなかにもいた


ぼくがおまえにあびせかけた


あざけりのなかにまでいたのだ


 


いま おまえは


さすらいの旅からかえってきた


このぼくのへとへとに疲れたからだを


さわやかにすがすがしくしてくれる


この頭をおまえのひざに抱いてくれる


ぼくのすべての惑いは


おまえにもどるための手だてだったのだ


 


 


メランコリーによせて


ヘルマン・ヘッセ/石丸静雄 訳


 


十四歳の時、神経衰弱に陥り、自殺を図って失敗に終わったヘッセは、マウルブロンの神学校の寄宿舎から脱走して、僅か半年で退学してしまった。


「詩人になるか、さもなければどんなものにもなりたくない」と言う、美しくも至純な観念を抱いて労働者となったヘッセは、その頃から独学で文学の勉強に取り組んだ。


その後、二度の離婚を体験したヘッセであるが、最初の妻の精神病悪化と、二度目の妻からは変人扱いされた為に心労が絶えなかった。幸いにも三度目の結婚によって、ヘッセは安定した家庭を迎えることができた。


詩を鑑賞するにあたって、作者の生涯を十分に咀嚼していると非常に理解しやすい。それだけではない、詩人の生い立ちや性格、或いは病歴に至るまで知り尽くしていると、解読が容易になってくる。


ヘッセの性質は内向的な分裂質の性格が基本となり、壮年期に鬱病から来る不安神経症に陥っている。『メランコリーによせて』は、寛解してから四十代に書かれた詩であると思われる。


翻訳を手掛けた石丸静雄は「ヘッセはその病気に罹って、楽しんでいる。メランコリーのない日は、一日一日があじきなかった」と鑑賞している。


私はヘッセの詩も、石丸の訳と解説も、実に見事だと思っている。ヘッセは自己の二元性の相剋に苦しみながら、精神病院に入院してユングの診断を受けている。だが、善と悪の二つの魂に対する苦悩は、古くから文学者や哲学者の永遠のテーマとして今日まで受け継がれている。


例えば新約聖書の『ローマ人への手紙』に於いて、パウロの二重性の煩悶が描かれているが、ドストエフスキーやゲーテ、夏目漱石らも、自我の二つの魂について苦悶している作品がある。


それでは次に、僭越ながら私が書いた『不安』を主題にした詩の、後半部分を紹介させていただく。


 


不安感がなくなれば


なおさら不安になる


 


俺は死ぬまで不安


死んでからも不安


 


俺は祈りはじめた


パラダイスで


安心して不安にすごしたい


不安に


 


この詩の前半では、一刻も早く不安感から解放されて、自由になりたいと叫んでいるのであるが、やがて不安は掛け替えのない友となり、行く末に不安は、安らぎの礎となってしまう。石丸静雄の解題が、そのままこの『不安』に適応してしまうのである。私はこの手法をヘルマン・ヘッセからではなく、アンリ・ミショーから習得している。


さて、不具で孤独のヘッセではあったが、やがてメランコリーは彼にとって心のよりどころとなり、憂鬱者の内面のゆとりを暗示させていた。


 


 


 


 





2011年4月13日水曜日

ツアー




僕のツアー・カンパニーが、大リーグ観戦ツアーを1990年に最初に催行した。ドジャース・スタジアムとエンジェルス・スタジアム。往時は日本からの観光客も大勢いて、ドル箱ツアーであった。


大手の旅行社から予約が殺到した。バスの手配とチケットの用意でおおわらわだった。笑いが止まらないということは、正しくこれだと思った。


笑いが止まらないのは、つかの間の夢。1995年に野茂英雄がドジャースに入団以来、他社が、ぞくぞくと大リーグ観戦ツアーに参入しだした。


僕は他社に負けないように、新しいツアーの開発に余念がなかった。ハリウッド・スターのタマゴ達にエスコートされながら、ヘリコプターに乗ってディナーを楽しむツアー。


ゴスペル結婚式、ショットガン射撃ツアー、ヒドゥンバレー・スターズ・ホームツアー等。いずれのツアーもヒットはしなかった。


1996年に僕のツアー・カンパニーが、終焉を迎えた。


 


 





そば処笹喜




Messagepart


京都で用事を済ましての帰り道、ふらりと立ち寄った蕎麦屋で、ニシンそばを頂いた。僕は女将さんに申し出た。


「こんなに美味しい、おそばを食べたのは、初めてです」


先ず、ダシが美味しい、秘伝のだしだ。五臓六腑しみわたる、はんなりとしたダシの味は、今でも覚えている。今度帰国したら必ず行くぞ!


『そば処笹喜』は、正にミラクルのそばの味だ。


京都市左京区高野車地139    075‐712‐7879    定休日・水曜





2011年4月11日月曜日

青と蒼




黒い流れ星が僕の眼(まなこ)にほとばしった


紅(くれない)の心はふさぎ 寂寥(せきりょう)を道ずれに


僕は益々輝きを増す


過重な青が暗闇に潜む時


僕は自分の体の中に 混迷してしまうのだ


言語サラダの蒼がまばゆい


僕の心は血色に染まる


 


足かせの青と眩耀(げんよう)の蒼


ウルトラ・マリンの螺旋階段


僕は生きるほどに


苦しみ


切なくなるほどに


苦しむ





何に使おうかな




病後、初めてお金になる仕事が舞い降りた。俳句の英訳の仕事である。僕は俳句の英訳は初めてだ。


依頼主から、意味が通じたら良いのですと言われて、僕はその仕事を引き受けることにした。


稿料が入ったら、何に使おうかな……





2011年4月10日日曜日

出世頭




修学旅行の宿で、一緒に煙草を吸っているところを先生に見つかり、一晩中正座をさせられた龍介は、事業に成功して世界中を股にかけて活躍している。


幼馴染の武史君はドイツに留学して、名の知れた音楽家になりつつある。


一緒に珠算塾へ通っていた健一は、親父の後を継いで政治家となるべく、大臣の秘書となった。 


高校一年の時、隣のクラスにいたイチビリの具志堅は、オリンピックのゴールドメダリスト。


野球部のキャプテンで、体の大きいあばた面の藤沢は、「俺は今、○○組のナンバー・ツーや」ドスの利いた声で語った。


一番仲の良かった慶三は、関西一円にたこ焼き屋のチェーン店を7軒も開店させた。


今、僕の前でカップメンを啜っている匿名希望君は、詳しい経緯はまだ語ってくれないが、一家離散、夜逃げして、今どや街で暮らしている。こいつ、暇なせいか話が良く弾む。


「おまえ、アメリカくんだりまで行って、まだ詩なんか書いてんの。物好きやのぅー」


相変わらず口だけは達者だ。みんな偉くなって忙しい、忙しいと言ってるけど、どん底の匿名希望君は、年中日曜日。


「おまえ、試練を堪え忍べよ。試練に遭ったことはええことなんや」 


一年後、匿名希望君から丁寧な手紙が届いた。「その節はギデオンの新約聖書有り難う。あれから教会へ通うようになり、悔い改めてイエス様を受け入れました」


僕は早速返事を書いた。「君が出世頭や!」





福喜鮨




梅田(大阪)に出て、少しかしこまった時に、利用する鮨屋がある。僕が日本いた頃、よく利用した鮨屋のベスト4に入る。


新阪急ホテル地下1階、『福喜鮨』。店長おすすめのにぎりずし、赤だし付きがお薦め。大阪にいて、江戸前のにぎりが味わえる。


穴子、小鯛、鯖、各棒鮨が絶品。


大阪新阪急ホテル・地下1階『福喜鮨』 大阪市北区芝田?-1-35  06-6372-5101





『えぼし』




きょう、病院の帰りに『えぼし』(カテゴリー食「食べてみなはれ」)で食事をした。僕が行くとオーナーのマイクさんが、何時も厨房から出て来て挨拶をしてくださる。


ドクターから秋頃に食事制限をして、再びラジエーション治療を行いますと言われた。1月にラジエーション治療を行った際に、絶大なる効果をもたらしたという。


僕は嬉しくなって、『えぼし』のチャンポンを食べたくなった。





2011年4月9日土曜日

ドラマの題名




NHKのドラマの題名、何だったかなぁ。


7でもない、6でもない、あっ、思い出した。江(5)だ。





血税




日本のニユースをテレビで見ていると、公務員(政治家)が会議中の映像が映し出される。テーブルの前には、一人ずつお茶のペット・ボトルが置かれている。


半分飲む者、殆ど飲まない人がいる。もったいない。一人100円として、国民の血税の無駄使いだ。


大きめのピッチャーか、昔ながらのヤカンに入れるかして、コーナー作りセルフ・サービスにするとよい。


大震災が起こり、節電と叫ばれて久しいが、避難所にいる人々は水不足が深刻だ。


テレビのニユースは氷山の一角である。もったいない、税金の無駄使いだ。





2011年4月8日金曜日

巨大なブリトー




4年ほど前に、リトル東京・タワーに住んでいるお婆ちゃんに教えてもらった。リトル東京から車で東へ15分。ランチタイムになると、長蛇の列ができる。

メキシカン・レストラン『El Tepeyac Cafe』。僕はこの店で始めてブリトーを食べた時、ブリトーの概念を履がいされてしまった。お薦めは「Manuel Burrito」マイルドでジューシーな味わい。


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知っているだろうか




女が女でなくなる時 女はそれを知っているだろうか


犬がニャーと鳴き猫がワンと鳴く時 ポチとタマはそれを知っているだろうか


野菜が果物で果物が野菜に変わる時 バナナと白菜はそれを知っているだろうか


英語がスワヒリ語で中国語がスペイン語の時 通訳者はそれを知っているだろうか


僕が僕でなくなる時 僕も私も俺もそれを知っているだろうか





Enterprise Fish Co




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サンタモニカのビーチサイドあって、雰囲気抜群のシーフード・レストラン。
チャブロイラー・チャコールで焼く、メイン・ライブ・ロブスターが有名。


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日本から来た、お客さんを案内するのに適している。
ケイジャン風ジャンバラヤ、コーンブレッド付きは、僕のお薦め。


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アサリのワイン蒸しが、ニンニクが効いていて中々美味い。


Enterprise Fish Coのホームページ・メニューを参考にしてください。





2011年4月7日木曜日

ガンバレ東日本




悲しみは突然やってくる


長閑な風景も消え失せて


愛する人々を亡くした


 


苦しみは突然やってくる


家族は枯葉ように離散し


みんなの幸せを一気に飲み干す


 


どんなにつらくても


あなたの優しさが好き


鷲のように強いあなたが好き


 


どんなにつらくても


あなたは負けないわ


天使のような あなたの笑顔が好き


 


日の丸を掲げて 世界中の友達が応援しているよ


その悔しさをバネに


肥沃な大地を夢見て


さあ 恵み深い海へ帆をはろう


 


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良きバブルの時代




僕はバブル期に、小さな旅行会社を営んでいた。主にツアー業務の仕事だ。個人でLAに来たビジネスマン、もしくは旅行者が対象であった。


僕はキャデラックのリムジンの運転をして、客の要望にこたえるのだ。ある日、日本の不動産屋が、ホテルのフロントを通して予約を入れてきた。


40代後半の男性で、もみあげは長く、背の低いでっぷりとした体躯であった。LAまで、クイーン・エリザベス二世号に乗船してきたという。


僕は市内観光に、不動産屋を案内した。夕刻になって、不動産屋は船の中では、ヨコメシばかりで飽きたので、LAで一番美味しくて、高級な料理屋に案内しろと言われた。


僕はリトル東京の『堀川』の中にある、『料亭堀川』に案内した。僕も一緒に食べた。会計は1,500ドル。


不動産屋をホテルまで送り届けた。リムジンの請求額が550ドル。不動産屋は1,000ドルを差し出すと、「チィプだ、取っておけ」と言った。おまけに近くの貴金属店で、5,000ドルもするローレックスの腕時計を、強引にプレゼントされた。


まだまだバブル全盛期には、景気の良い客がいた。


一例をあげると韓国人の財閥の会長が、僕の会社を利用した。大層サービスが気に入ったらしく、お礼にと、韓国へ遊びに来いと言われた。


コリアン・エアーのファースト・クラスのエアー・チケット2枚と、ロッテ・ホテルのスイート・ルーム4泊(食事つき)をプレゼントされた。





2011年4月6日水曜日

東日本大震災の被災者に捧ぐ




宮沢賢治の詩『雨ニモマケズ』は、最後に「ソウイウモノニワタシハナリタイ」と結んでいます。即ち、賢治が理想としていたモデルとなった人物がいたのです。その人の名前は斎藤宗一郎と言い、賢治の周辺にいた敬虔なクリスチャンであった。(詳しくは『旧ラッパを吹くひつじ』、アゴラ・宮沢賢治参照)


賢治は岩手県花巻町の出身、宮沢賢治・作詞、宇佐元恭一・作曲。『雨ニモマケズ』を被災された人々に捧げます。







アベコベ




空に海があり


海に空があったら


飛行機は航海


船はフライト


 


窓にドアがあり


ドアに窓があったら


泥棒は戸惑う


住人は不便


 


女は男であり


男は女であったら


番台のオヤジは困る


宝塚歌劇団は混乱する


 


地獄は天国にあり


天国は地獄にあったら


罪人は天国に行き


良人は地獄に堕ちる





2011年4月5日火曜日

満開




原稿を執筆している時が、一番充実している。そろそろ、新聞、雑誌に書こうかと思っている。


ブログの記事も、気がついたら70篇以上書きだめをしていた。昔とった杵柄である。


ジャズを聴きながら、執筆をしている際が、闘病の僕が最高に満開になる時だ。


「雨の日も風の日も満開になれ」





Little Next Door




LAにリーズナブルな、フランス料理のレストランがあると聞いて、興味津々足を運んだ。この日は、レストランのテラスで食べた。


僕が食べた料理の中で、最も美味しかったのは、フレンチ・オニオン・スープとムール貝の白ワイン蒸し。


地中海風フランス料理も、探せばまだまだ美味しい物がありそうだ。『Little Next Door』のホームページを参考にしてください。





2011年4月4日月曜日

難しい




数学は算数よりも難しい


子供を産むより育てる方が難しい


政治家になるより農夫漁師なる方が難しい


電卓よりもそろばんの方が難しい


宇宙に行くことよりも人類が平和でいることの方が難しい


嘘をつくことよりも正直でいる方が難しい


死ぬことよりも生きることの方が難しい





本場の焼き肉をご賞味あれ




鶴橋(大阪)は焼き肉の激戦地。焼き肉屋の店先では、呼びこみが盛んだ。初めての人は何処にしょうかと迷う。迷ったら『焼肉・鶴橋・蘭』へ飛び込んでいただきたい。


雰囲気がよく、清潔で、もちろん焼き肉もジューシーで味わい深い。店員さんも親切だ。単品の、焼き肉メニューも充実している。ホルモン・セット1,344円。よろこび・セット2,079円。蘭コース21品、4,000円。


大阪のコリアン・タウンで、本場の焼き肉をご賞味あれ。





食通の社長




日本の大手印刷会社と取引をしたことがある。度々専務が日本からアメリカへ来られる。名刺を見ると米国○○会社の社長と書いてあった。


二ヶ月に一度の割合で、日本から社員と共にやって来る。僕はコーディネートと、各会社へアポイントメントを取る任務を任されていた。


夕刻になって帰りの車の中で、社長は「新井さん、今晩は何処にするかな」と僕に聞く。今夜も何か美味しいものを、食べに行こう言う意味だ。


社長は業界切っての、食通として名がと通っていた。僕は毎晩、社長の舌を満足させるのに大変であった。ある晩、ビバリーヒルズの中華料理店『文記』(もんき)に案内をしたら、社長はえらく気に入れられた。


数ヶ月後に社長が来米された。また、『文記』に行きたいと言う。予約を今から入れなさいと言われた。社長は満漢全席が食べたいと僕に言った。僕は絶句した。


予約を入れる際に、満漢全席は出来るのか、僕はマネジャーに訊ねた。一人前700ドル、5日前から予約要、ミニマム4人、僕も楽しみだった。


当日は山海珍味が並んだ。ツバメの巣、フカヒレ、熊の掌、蛇、象の鼻etc。中国の年代物の酒、タックス、チップを入れると、一人前が1100ドル。


社長もご機嫌ようす、僕はようやく肩の荷が下りた。


 





2011年4月2日土曜日

『縄寿司』と『亀すし』




『亀すし』(紹介済み)は、僕が最も利用した鮨屋。『縄寿司』は2番目。『亀すし』よりも『縄寿司』の方が、安くて量が多い。新鮮なネタばかりで美味しい。


『縄寿司』は『亀すし』の目と鼻の先にある。歩いて45秒。お金の持ち合わせが少ない時に、『縄寿司』の暖簾をくぐる。バンザイ!『縄寿司』。


『縄寿司』


大阪市北区曽根崎2‐14‐1     06‐6312‐9892     定休日・第1・2月曜








神が創造された人間だから


僕の思考は自由だ


僕は人間から脱出できない


僕の心から逃れられない


僕は赤の中の黒の中のブルー


 





片 恋




初めてあなたの手にふれたのは


サンタモニカの海岸通り


陽光にあふれた手つなぎの道は


思い出の彼方でまどろんでいる


 


夏がはじまり


ジャカランダの木の下で佇んでいると


きょうも あなたのことばかりが


洋梨の香りをたずさえて、潮騒のように騒ぎ立つ


海ツバメの羽毛のように身も心もときめいて


ぼくは勢いよく大空へと舞い上がる


 


ああ あなたに会いたい


ぼくの鳩尾(きゅうび)は


晩秋に回廊の柱の陰で朽ち果てた


北風に踏まれる茜葉のように


静かに燃えるだけ


 


青い月の光を帯びて


あなたの愛くるしい仕草は


水煙にかげるナイルの白百合


 


遠くから見つめていると


あなたの甘味な吐息を


ぼくの口許に感じる


 


ああ するとどうだろう


ぼくの胸はいたく張り裂けて


ビオラの弓弦(ゆずる)で


熱く激烈に弾き打たれる





2011年4月1日金曜日

2011年 冬 俳句 1




2010年 冬 俳句 3


 


1. 主に祈る癒してくれと年の瀬に


 


2011年 冬 俳句 1


 



  1. 愛されて癒されてイエスの恵み

  2. 闘病記イエスを愛し冬桜

  3. 主にありて兄弟姉妹祈りの輪

  4. 主の愛がぎっしり詰まったお弁当

  5. 春近し花を見たくて散歩する

  6. 雨の日も風の日も満開になれ

  7. 癌の人ガンで雁をガンガン撃っている


 





愛くるしい




今日、ジョイと江美子と三人で、病院へ行って来た。帰りにチャイナタウンに寄って、飲茶を食べた。


久し振りに三人で出掛けたのが嬉しいかと見えて、ジョイが飛んだり跳ねたりする姿を、江美子と二人で眺めていた。


ジョイの満面の笑顔が、愛くるしく思えた。