2011年5月31日火曜日

遭遇




映画『未知との遭遇』以来、若者の間で「遭遇」が流行った。


好きな人と遭遇する。先生と遭遇した。美味しいレストランと遭遇する。どれも間違えだ。


嫌なものに偶然出会った時に、遭遇を使う。


山中で熊と遭遇する。事件現場に遭遇する。





2011年5月30日月曜日

清酒




僕みたいに気が弱くて、意志薄弱の者が、ここまで回復できたのは、イエス様の癒しを信じる心を持ち続けたからだと思う。


ただ信ぜよ 信じる者は救われる。聖書の御言葉に、嘘偽りはない。ハレルヤ!


 


※   最初、キーボードで聖書と打つところを、かつて僕の大好きな清酒と打ち間違えました。





週末




太郎は店の営業時間を調べた。週末は11時から6時。


週末って何曜日。


金、土、日、それとも金、土、或いは土、日。


週の初めは、日、それとも月。


神様は天地創造の時、第7日目に終わって休まれた。


従って日は、週の最後。


そうなると週末は土曜日だけ。


店長に聞くと、週末は土と日。


しっくりと来ない、太郎でした。








フランスへ江美子と一緒に旅行に行った際に、パリ在住の畏友に、お薦めの観光地を訊ねた。即座に友は、モンサンミッシェルと答えた。


海に忽然と姿を現わす小さな島に、高くそびえたつ教会は、下から見上げるとあまりにも巨大で感奮すると言われて、レンヌを目指してTGVに乗った。レヌンから更にバスで1時間半、いよいよ世界遺産のモンサンミッシェルだ。


僕はツアーの仕事を長きにわたりやって来た。グランドキャニオンも幾度か赴いた。で、モンサンミッシェルを見る前に、グランドキャニオンことを想像していたら、モンサンミッシェルを見た途端に、拍子抜けしてしまった。拍子抜けしてしまったのは、僕が想像を膨らましすぎたからだ。 


確かに、モンサンミッシェルは素晴らしい。僕たちは隣の村、ポントルソンのホテルで投宿することにした。早速、田舎のお惣菜屋さんを訪ねてみた。老婆が容器持参で買い物に来ている。ニシンのオイル漬けを買っていた。容器持参だなんて、日本の田舎とどこか似通っている。


明日は移動日、モンパルナスへ帰って再びTGVに乗る。目指すは食通の街リヨン、お目当ては言わずと知れた三ツ星レストラン、ポール・ボキューズ。


初日の夜は、場末のブラッスリーで舌鼓。二日目のディナーは、ダーク・スーツに着替えて、ポール・ボキューズに、いざ出陣。





2011年5月29日日曜日

ホテル・カリフォルニア




27、8年前に、ダウンタウンの西外れ、6thストリートに、カリフォルニア・ホテルがあった。


僕は自動車で、ホテルの前を通るたびに気になっていた。これがイーグルスのホテル・カリフォルニアか? 小さくてみすぼらしい。


サンセット・ストリップのタワーレコードに立ち寄って、イーグルスのホテル・カリフォルニアのレコード・ジャケットを確認した。見た事のない建物が、ジャケットの写真として使われていた。


5、6年の後、僕はツアーの仕事を始めた。観光客を連れて、毎日ビバリーヒルズへ赴いた。或る時、僕は気がついた。レコードのジャケットは、目の前にあるビバリーヒルズ・ホテルだ。


それ以来、観光客に「ビバリーヒルズ・ホテルは、イーグルスのホテル・カリフォルニアのレコード・ジャケットに使われております」と説明をした。


 





2011年5月28日土曜日

テレビ・ジャパン




『NHK俳句』と『俳句王国』をテレビ・ジャパンで毎回観ている。勉強になること数多だ。番組は午前3時半に始まる。不便極まりない時間帯。昼ぐらいに再放送をやってくれることを望む。


今、この記事を書いていて気付いた。タイマーをしかけて録画という方法もある。なぜ気付かなかったのだろう。


『サラリーマンNEO』は全く面白くない。観ていて腹が立つ。昔の『ゲバゲバ90分』の方が、はるかに面白い。


好きな番組は『金曜バライティー』、『生活笑百科』、『美の壺』、『ためしてガッテン』、『世界ふれあい街歩き』、『アンパンマン』。





生き抜こう




ジョイは何時も9時半に寝る。寝る前に、僕と一緒にお祈りをする。お父さんの病気が治りますように。お母さんのストレスがなくなりますように。私のアレルギーが治りますように。そして日本のためにも祈る。


食前の祈りを入れると、毎日5回は祈る。祈りは岩をも砕く。力強い祈り、優しい賛美。


今日も力の限り、一生懸命生き抜こう!!!





2011年5月27日金曜日

『ちく満』




Messagepart


大阪で蕎麦を食べるなら、堺市宿院町の『ちく満』(ちくま)へ。僕は36年前に、初めて『ちく満』で、せいろそばを食べた。


その時、目からうろこが落ちる美味さは、今でも鮮明に覚えている。せいろを食べた後に飲む、かまくら(そば湯)は、五臓六腑にしみわたる。


この美味さは、筆舌に尽くしがたい! 日本人に生まれて良かったと、充実感かほとばしる。


 


大阪府堺市堺区宿院町西1-1-16    072-232-0093     定休日-月曜(但し月曜日が、祝日の場合営業、翌日休み)


 





2011年5月26日木曜日

お茶の話




♪ 夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る・・・


 茶摘みの時節は産地によって異なるが、東海地方では八十八夜前後の、四月下旬から五月下旬にかけて行われる。


「一番茶 摘みて畑小屋 水もなし」(石川桂郎)。四月下旬に芽摘みしたものを一番茶と呼ぶが、その味わいは格別で最上だ。


日本からの来客が次から次へと訪れると、わが家の台所の棚は、たちまち各地の日本茶で溢れてしまう。その代わりと言っては何であるが、賓客を主要観光地へ案内するのは慣れたもので、お茶の子さいさいである。


「お茶の子」とは、茶菓子の意であるらしい。お茶を飲みながらであれば、菓子類がいくらでも腹に入ることから、何の苦もなく簡単にやってのける様子を表している。


その後に、俗謡の「のんこさいさい」という囃子詞を結びつけて、テンポのある語調が広まった。


チャイナタウンにある行きつけのレストランで食事をする際に、必ず注文するのがプーアールに菊の花をブレンドしたコッポウ茶。夜は仕上げに、特製のザーサイでお茶漬けをするのが習慣になっている。


ひところ味わったお茶漬けで、忘れられないものが幾つかある。温かいご飯の上に、トンカツを載せたカツ茶漬け、岩屋(淡路島)で食べた鯛茶漬け、うなぎの蒲焼をのせたウナ茶、極め付きはクサヤのお茶漬け。


「駿河路や はなたちばなも 茶のにをひ」(松尾芭蕉)


五月には、初摘み新茶が市場に並ぶ。新芽がふくらみはじめ、これから一気に成長しようとする短期間に、黒いネットをかぶせて育てたお茶を、かぶせ茶という。二次加工を一切施さない「あら茶」のままの「かぶせ煎茶」の滋味は、「これぞ、究極の、至福の一服!」、唸ること受け合いである。(詳細:www.obubu.com





2011年5月25日水曜日

虹色の天国




僕は癌であるが、癌でないような気がする。悪い夢か、冗談でも言われているような気がする。


夕べ、難病の子供たちを助ける夢を見た。


同じ人生なのに棘(いばら)の道が果てしなく続く、やがて神様が用意してくれた、パラダイスが待っている。難病の子供たちに、僕が伝道する夢を見た。


「神は愛なり!」、そう唱えると子供たちは、虹色の天国へキラキラと羽ばたいて行った。





2011年5月23日月曜日

従妹の家で




Messagepart


江美子の従妹のハズバンドは、スペイン系アメリカ人。料理が得意、食通でもある。従妹の家に行くと、美味しいワインとご馳走で持て成してくれる。食後にはシガーもでる。


トニーと僕とは気心が知れ合う仲だ。ベルギーに旅行に行った折に、江美子と一緒にレストランでパエリアを食べた。そのことをトニーに告げると、「ベルギーでパエリア?」怪訝な顔をされた。


美味しかったとトニーに報告をしたら、「本場(スペイン)のパエリアはもっと美味しいよ」と返事が返って来た。なるほど、外人が韓国に赴いて、鮨が美味かったよと、言うようなものか。


フランス在住のJTBに勤める知人が推奨してくれた。パリから夜行バスに乗り、スペインに行くと美味しい蛸(タコ)が食べられるという。早速、行動を開始した。


蛸も美味だが、鰯(イワシ)の塩焼きがこれまた美味い。お隣のポルトガルも鰯の塩焼きが名物だ。日本では名物とはいかないにしても、昔ながらの素朴な料理。


写真は鰯の塩焼き、フレンチ・フライが添えてあるからには、ファースト・フード。野菜もサイドに付いている。鰯にレモンを絞ってから食べると美味しい。


トニーの希望で、僕は京都たるげんの桶に入れた湯豆腐を持参した。ダシは特製、たるげんの桶は炭火で温めるように施されている。


この日は(5年前)、シガーとコニヤックで締めくくった。





便所掃除





 


便所掃除


浜口国雄


 


扉をあけます。


頭のしんまでくさくなります。


まともに見ることが出来ません。


神経までしびれる悲しいよごしかたです。


澄んだ夜明けの空気もくさくします。


掃除がいっぺんにいやになります。


むかつくようなババ糞がかけてあります。


 


どうして落着いてくれないのでしょう。


けつの穴でも曲がっているのでしょう。


それともよっぽどあわてたのでしょう。


おこったところで美しくなりません。


美しくするのが僕らの務めです。


美しい世の中もこんな所から出発するのでしょう。


 


くちびるを噛みしめ、戸のさんに足をかけます。


静かに水を流します。


ババ糞に、おそるおそる箒をあてます。


ポトン、ポトン、便壺に落ちます。


ガス弾が、鼻の頭で破裂したほど、苦しい空気が発散します。


心臓、爪の先までくさくします。


落とすたびに糞がはね上がって弱ります。


 


かわいた糞はなかなかとれません。


たわしに砂をつけます。


手を突き入れて磨きます。


汚水が顔にかかります。


くちびるにもつきます。


そんなことにかまっていられません。


ゴリゴリ美しくするのが目的です。


その手でエロ文、ぬりつけた糞も落します。


大きな性器も落します。


 


朝風が壺から顔をなぜ上げます。


心も糞になれて来ます。


水を流します。


心に、しみた臭みを流すほど、流します。


雑巾でふきます。


キンカクシのウラまで丁寧にふきます。


社会悪をふきとる思いで、力いっぱいふきます。


 


もう一度水をかけます。


雑巾で仕上げをいたします。


クレゾール液をまきます。


白い乳液から新鮮な一瞬が流れます。


静かな、うれしい気持ですわってみます。


朝の光が便器に反射します。


クレゾール液が、糞壷の中から、七色の光で照らしています。


 


便所を美しくする娘は、


美しい子供をうむ、といった母を思い出します。


僕は男です。


美しい妻に会えるかも知れません。


 



 


八年ほど前にも、他紙でこの詩を紹介したことがある。この臭くて汚い、顔をしかめたくなる様な詩は、岩波新書の『詩の中にめざめる日本』(真壁仁篇)に収録されている。


浜口国雄は、往時、金沢車掌区に勤務する労働者であった。一九五五年、『便所掃除』は第五回、国鉄(現JR)詩人賞を受賞している。


浜口は便所掃除を始めるにあたって、神経が麻痺するほどの尾籠(びろう)な有様を見て、気が腐る思いになった。けれども、自ら与えられた任務を「美しい世の中もこんな所から出発する」と達観させている。


そこには、生真面目で純真な青年像がうかがえる。孤軍奮闘しながら便所掃除の過程を克明に描いたこの作品は、六連目の「静かなうれしい気持ちですわってみる」充足感によって、この詩を超越した、真壁仁の言う「倫理と英知がひらめいている」。


最後の連は、ともすれば浮かれ気味になる場合が多いが、読後感が爽やかで巧みな結びとなっている。冒頭で汚い詩であると書いたが、とんでもない、無類に美しい詩なのである。





2011年5月22日日曜日

行こう




最近、体の調子がものすごく良い。相変わらず右半身は不随で、言語障害がある。近い距離なら歩くことができる。スーパーで買い物をすることは唯一の楽しみ。


夏休みになれば、三人で映画を観に行こう。三人でレストランに行こう。三人でクリスチャン・リトリートに行こう。





2011年5月21日土曜日

歯が痛い




新井(歓喜)ジョイ 9歳


 


痛い 痛い


歯が痛い


グラグラ グラグラ 歯が痛い


 


痛くて 痛くてしょうがない


ああ どうしよう どうしよう


 


痛い 痛い


いじわるの歯


わたしをそんなにいじめないでよ~


 





2011年5月20日金曜日

ハンバーガー




このほど、ウィスコンシン州に住む、ドン・ゴースクさんは、マクドナルドのビッグ・マックを1日2回、39年間食べ続けた。その数25000個。


アメリカ人の半数以上は、ハンバーガーを1日1回は食べる。アラバマに住んでいる知人は、ロサンジェルスに遊びに来た際、ランチにチーズバーガー。僕がディナーは何が食べたいと促すと、チーズバーガー。


或るアメリカ人が語った。ハンバーガーは、栄養のバランスが配慮されている食べ物。これは昔の話、オールド・ファションのハンバーガーは、レタス、トマト、オニオンが入てる。最近のハンバーガーは、野菜の量が少ない。


因みにバンズの上部がクラウン、下部がヒールと言う。





2011年5月19日木曜日

真夜中の日課




ロサンゼルス郊外


深夜のフリーウェイ沿いに 車を停車した


 


垢づいた黒い空に


タコベル


マクドナルド


デニーズのネオンサインが


魔女~魔女~揺らいでいる


 


一体おれは、どうして


なぜ、この年齢になって


今、ここにいなければならないのだろうか


 


毎日、同じ車を運転して


同じ道を通い


同じものばかりを腹に入れて


同じ人間たちと付き合っていく


 


おれは今、女(スケ)を迎えに来たのだ


時には車から抜け出して


おれは魔女たちと重なり合いながら


過去と現在と未来を置き換える


 


同じねぐらへ、女と一緒に帰るために


おまんまを腹いっぱいになるまで喰らいたいから


夜な夜な、おれは同じことを繰り返す





短気




「らっしゃ… ぃ」


「ざるいちめぇ!」


「相変らず早いね」


「こちとら江戸っ子よ、気が短けぇーんだ」


 


「へい、お待ち」


「よぅよぅよぅ、にめぇも頼んじゃいねぇよ」


「さっさと食え、明日の分だ!」





2011年5月18日水曜日




詩を書けば誰でも詩人である。僕も詩を書くので、周囲の者からは詩人として紹介されることがしばしばある。しかし、未だかつて自ら詩人であると名のったことはない。それは詩人に対する深い畏敬と、高貴な詩の世界へのあこがれがあるからだ。


僕の書く文章は水に浮かぶカワウソの戯れに過ぎない。彷徨のエトランゼ気取りで、少しささくれていたい気持ちが、いつも細波(さざなみ)のように僕の胸底に打ち寄せ、時として砂漠の砂を噛む思いで現実を呪う。多分、多重とか虚像とか、そして光とか宇宙といった限りなく屈折する相剋に、僕は迷い込んでしまったのだ。


黄昏に、牧歌的たたずまいの小径を歩いていて、馥郁と漂う木犀の香りにつつみ込まれた瞬間、ふと、素直な自分に充足と安らぎを覚えるのだが、詩を書くことは、僕にとってはその瞬間をいつまでも継続させる純白であり、解放ですらある。


そして本当の自由とは神(God)の御前に跪き、頭(こうべ)を垂れて自分の罪を悔い改めることから始まるように、僕の詩業もまた、つねに新しく生まれ変わることから出発する。そして新しい第一歩にはにかみと狂気を携えて、僕は、僕自身を、僕自身は、僕を模索し始める。


旧ソビエトの亡命詩人ヨセフ・ブロッキーが若いころ、「詩は教えられるといったものではなく、神様から来ると思う」と語った。最近つとに思うのだが、詩を書くことは、神から与えられた仕事であると考え始めている。換言すれば、「詩人の声は単なる人間の記録に留まるだけではなく、人間が耐え、勝利するのを助ける柱の一つとなること」。このフォークナーの詩人の義務に起因する。


T・Sエリオットが、ボード・レールからの衣鉢を、明瞭な倫理的また神学的な基準をもって吟味した上で、世界中の詩人たちに伝達したように、僕もまた、デカダンスの奥義に翻弄されることなく、常識や人間の知識と理性にあって小さくも大きな傲慢に屈せず、のべつ謙虚な態度で文学と対峙していたい。





美しいこと




この世で最も美しいことは、神に祈り、賛美することである。


僕は今日も、神に祈り賛美する。





12月24日




僕の鳩尾(きゅうび)に穴があいたからと言って


そんなに見つめないでください


 


悲観的になったり


過去にこだわったりするのは


そのせいではないのです


 


いつの日か


小さくてもいいから


心の安らぎが得られるまで


応急手当をしてくれれば


それでいいのです


 


僕は「ありがとう」ってみんなに言いたい


でも 鳩尾に穴があいているせいか


寒くて 寒くて


口元が震えてはっきりと言えないけれど


 


いつの日か


小さくてもいいから


心の安らぎが得られた時


幸せに満ち溢れた顔で


心から微笑んで「ありがとう」って言うよ


 


人々が血潮を懸けて祈る暮夜


恋人たちがシャンパンの栓を抜く夕暮れ


そして


ミサが始まる朝


 


僕の鳩尾に穴があいてしまった





2011年5月17日火曜日

最近の日課




7時15分起床、食前の薬を飲む、ジョイの朝食を作る。ジョイ学校へ。


9時に江美子が帰って来る。一緒に朝食、メール、インターネットチェック。TV鑑賞


午前11時頃から昼寝、原稿書きの仕事、PC相手に将棋を指す。ランディー(昼夜)を食べる。


家族団欒ひと時、江美子が仕事に出掛ける。ジョイ就寝9時半


ジャズを聴きながら10時から午前3時まで、原稿を書く。





2011年5月16日月曜日

三木露風




 


夕焼け小焼けの、赤とんぼ


負われて見たのは、いつの日か


 


山の畑の、桑の実を


小籠に摘んだは、まぼろしか


 


十五でねえやは、嫁にゆき


お里のたよりも、絶えはてた


 


夕焼け小焼けの、赤とんぼ


とまっているよ、竿の先


 


国民的動揺である『赤とんぼ』は、詩人の三木露風が大正9年(1920)に作詞している。その後、昭和2年(1927)に山田耕筰が作曲を手掛けてから、日本全国で『赤とんぼ』の歌が親しまれるようになった。


さて、大正9年(5月)は、露風が北海道のトラピスト修道院に講師として赴任した年である。おそらく露風は住み慣れた東京を離れて、懐旧の念にとらわれながら、生まれ育った故郷(兵庫県龍野町)のことを思い浮かべながら『赤とんぼ』の歌を作詞したのだろう。


「夕焼け小焼けの赤とんぼ」も、「とまっているよ、竿の先」も、幼い頃に見た露風の原風景である。露風はこの同じ光景をトラピスト修道院で体験することによって、一つのインスピレーションが閃いたのである。


母の背に負われて見た赤とんぼは、今でも自分の目の前に現存し、桑の実を摘んだ思い出や面倒見のよかったねえやへの郷愁は尽きることがない。けれども、最後の歌詞部分である「とまっているよ、竿の先」だけは、原風景と異なっていた。


実は四番目の最後の句は、露風が龍野高等小学校在学中に作句したものである。「竿の先」に静止している「赤とんぼ」の風姿は美しくも切なく、いつしか消え去ってしまうであろう幻の不安が、物心がついた頃から露風の感性を憂えさせていた。それは正しく寂寥(せきりょう)たる眺めであったにちがいない。


それから時は流れて、三十二歳になった露風はトラピスト修道院でも、竿の先にとまっている赤とんぼの「原風景」を見ている。露風の目の前に現れた幻は相変わらず美しい。けれどもそこには、もはや露風を深憂に陥れるような「原風景」は存在していなかった。


露風が新たに捉えた竿の先にとまっている赤とんぼの姿とは、信仰と希望と愛の象徴である十字架であった。夕日に映える赤とんぼの十字架が、至上の愛をかざして露風の目に映っていたのである。この揺ぎ無きキリストの愛によって、一切の不安から解放されることを確信していた露風は、『赤とんぼ』の終わりの一行を、幼児期から少年時代にかけて纏わりついていた「寂寥」を葬って、希望の灯火として歌えるように、竿の先にとまっている「赤とんぼ」に十字架への思いを込めている。


2年後、露風は詩集『信仰の曙』を上梓して、妻と共に受洗。翌年、修道院を辞して帰京した。


 





脱皮




こんなはずじゃなかったのに


白いシーツに酒の匂い


白い壁にカクテルグラス


扉を開けると


二人きりで君の誕生日を祝ったね


 


ポタージュとハンバーグをまわして遊んだ思い出


君の友達をまわして泣けてきた


でも何かまわしたりないみたい


 


午後九時三十分


電話のベルは鳴るはずがない


そのかわり


感情豊かな弦を聞いています


だから


もう


地下鉄には乗りません


パルファンの薫が消えるまでは


フルートをウィッファーと呼べるまでは


地下鉄には乗りません


 


モスコミュールを飲むことがあったら


目薬をさすんだよ


ミュートに


ああ


メイナード・ファーガソンのホーンが


ミュートに聞こえる


 


こんなはずじゃない


こんなはずじゃなかったんだ





2011年5月15日日曜日

茶のにおい




新茶の時節到来である。香気の高いはしり茶を、舌の上で転がすようにして味わうと、萌え出た芽の風味が咽頭にしみかえる。


「駿河路や はなたちばなも 茶のにをひ」


静岡にある『世界緑茶協会』事務局が監修しているエッセイを読んだ。そこに、芭蕉の句に出てくる「茶のにおい」ついて言及されてあった。


すべての国文学者は、茶のにおいを新茶の香りであると解釈しているが、芭蕉がこの句を詠んだのは五月中旬。太陽暦に換算すると六月の初めになる。新茶の季節は既に終わっている。従って、はなたちばなの香りを圧倒する茶のにおいとは、街道筋周辺の民家が自家用の番茶を作るために、生葉を釜で炒ったにおいであるというのである。


芭蕉は、江戸から東海道を京へ向かっていた途中で、大井川の川止めにあって島田で四泊している。芭蕉は余儀なく足止めされた期間に、農家や投宿先の軒下で、お茶の葉を炒る強い香りを嗅覚していたのであろう。


それから、「はなたちばな」の季語は夏であるから、芭蕉がこの句を詠んだのは、六月の初めとする見解に異論はない。


但し、静岡のお茶の収穫期は四月下旬から九月までである。その期間に四回にわたってお茶の葉が収穫される。即ち、芭蕉は二番茶の収穫期にあたる六月に、駿河路へ差しかかったのである。また、新茶が出回るこの時節において、日頃、まめに生葉を炒る農民たちも、この季節ばかりはその手を休めて、はしり茶を賞味していたのではないだろうか。


このようなことから「茶のにおい」とは、一番茶でも、お茶の葉を炒ったにおいでもないのである。芭蕉は二番茶の香りを詠んでいたのだ。と解釈しているのであるが、これはあくまでも私見に過ぎない。


日本から小包が届いた。新茶の味わいは格別である。それでは一句添えて、礼状をしたためることにする。


『風光り小包いたる茶のにおい』





メチャウマイ




黒毛和牛のA5ランクを、安値で食べられる。数年前、僕は半信半疑で炭火焼肉の『かうかう倶楽部』へ赴いた。


一口噛んだ瞬間から、正に天に昇る心地がした。肉の旨味が凝縮されていて、佳味甘露。平たく言えば、美味しすぎる。安すぎる。


黒和牛ハネシタと産地直送の生レバーは、絶対に食べるべき。絶対に行くべし、メチャウマイ、またとない名店。


※  ハネシタとは、牛一頭より2~3キロしか取れない希少部位


 


大阪府茨木市豊原町2‐4   072‐640‐4538   定休日・火曜





2011年5月14日土曜日

レモン哀歌




 


 


レモン哀歌 


高村光太郎


 


そんなにもあなたはレモンを待つてゐた


かなしく白くあかるい死の床で


わたしの手からとつた一つのレモンを


あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ


トパアズいろの香気が立つ


その数滴の天のものなるレモンの汁は


ぱつとあなたの意識を正常にした


あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ


わたしの手を握るあなたの力の健康さよ


あなたの喉に嵐はあるが


かういふ命の瀬戸ぎはに


智恵子はもとの智恵子となり


生涯の愛を一瞬にかたむけた


それからひと時


昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして


あなたの機関はそれなり止まった


写真の前に挿した桜の花かげに


すずしく光るレモンを今日も置こう


 


詩集『智恵子抄』(一九四一年刊行)に収録されている「レモン哀歌」は、智恵子夫人が歿してから五ヵ月後の作である。書き出しと結びの二行を見れば、死歿してから何日かが経過して作られた作品であることが窺われる。


智恵子が亡くなったのは、昭和十三年(一九三八)の十月である。往時の日本国内におけるレモンの普及状況は定かではないが、レモンの収穫時期は秋なので、容易に手に入れることが出来たのであろう。


盛夏から秋果に掛けては、葡萄、桃、りんご、柿など旬の果物が多い。光太郎は『智恵子の半生』の中で「わたしの持参したレモンの香りで洗われた彼女は、それから数時間のうちに極めて静かにこの世を去った」と書き記している。


では、どうして光太郎はレモンを選んだのかと、まず考えてみた。例えば時節の一輪の花や、智恵子が情熱を傾けていた紙絵ではいけなかったのか、或いはりんごや葡萄では光太郎の意識は感応しなかったのであろうか・・・。


やがて私は、一つの結論に達していたのである。「レモン哀歌」は詩であると同時に、絵画であり彫刻であるのだと、強く全身で感受したのだ。


かなしく白く、あかるい死の床がカンバスであれば、そこには智恵子とレモンが描かれてある。そしてレモンをがりりと噛んだトパアズいろの香気が立ちこめている。 


このあまりにも立体的な詩には、光太郎と智恵子の愛の証しが、哀しくも美麗に刻まれている。そして、私は即座に察知した。このオブジェ(「レモン哀歌」)は、円く、大きく、自然そのものを表現しているが、そこには彫刻家であった光太郎が、欧州に留学していた時分に師事したロダンの人柄と作風に、大きな影響を受けていた。


この詩の終結は、智恵子が逝ってから初めての芳春を迎えている。すずしく光る山吹色のレモンに、桜の退紅色が添えられていて、哀歌は艶やかな一枚の油彩となって結ばれている。


 





2011年5月12日木曜日

あけみさんへ




ハレルヤ!  あけみさん素晴らしいお証し、有り難うございました。癒し主、救い主、王の王、主の主ですよね。  ♪  信仰は勝利。


同じカリフォルニアに住んでいるので、近くでしたらお会いしたいです。遠くに住んでいても、主が時にかなって美しい時間をきっと備えてくれます。





女のお話




自分の気持ちに嘘をつきながら


素直になることは


女を欺くことになるのだろうか


それとも


女がウワテだけのことだろうか


だとすれば 二人ともいけないことだ


 


社交界に巣くい


朝帰りの続く女は


僕の綯い交ぜになった痛手を


しなやかな白い温もりでバラシ始めた


 


微笑み 囁き 吐息のにおい


思い切って外に出てみた時のように


女の


粘膜 軟骨に腕を突っ込み


蒼いシルクの産毛に指を侍らすと


女は何も言わない


全てのしぐさが


僕の心に深く染み入るだけだ


 


二人の出会いはイイカゲンなはず


おんなは


時々僕を誘惑する


悩ましい女


だらしのない僕


 


ある日 夢の中で


女は しおらしく泣いていた


僕は女の紅涙を舐められなかった


いったい


この女は ナニ


そして


僕だけが イケナイコトダ





テーブルマナー




アメリカの蕎麦屋の客は、みんな音を立てて食べていない。そばの味がいくら美味くても、啜りあげて食べなければ、そばの味は半減する。


そう言う僕もアメリカの蕎麦屋では、音を立てて食べないことにしている。ラーメン屋も然りである。


日本人(主に男性)は音を立てて食事をする。お茶づけ、みそ汁、そうめん。熱いお茶を飲む時に、音を立てて啜る。日本の文化だと言ってみたところで、世界には通用しない。


スープの飲み方で、何処の国の人かが分かる。手前から外へ向けてスプーンを動かす人は、イギリス人。外から手前にスプーンを動かす人は、アメリカ人。真ん中からスプーンを入れて、スープをすくいながら食べるのは、フランス人。


或る日本人のカップルが、新婚旅行でフランスへ赴いた際、三ツ星のレストランを利用した。ソムリエが飲み物を伺いに来た折に、二人が声をそろえて「コーク」と言ったものだから、ソムリエは両腕大きく開いて「オー ノウ!」と言ったとか。





2011年5月11日水曜日

カレー・メロン




♪ 花のない国、歌のない国、お菓子のない国、友だちない国、そんな国はごめんだけれど、カレーのない国もっとごめん・・・・・・。


アニメ『にこにこぷん』の挿入歌を聴きながら、


「子供って、本当にカレーが好きなんだなぁ」。つい声を発してしまった。


小学三年生の折、担任の先生がクラスの生徒全員に、一番好きな食べ物を尋ねたことがあった。その時、カレーは第二位で、トップは卵焼きだったことを憶えている。ビフテキと答えたのは、僕一人だけだった。


カレーに生卵を落として食べることはできるが、その時分はステーキ・カレーなる発想は湧いてこなかった。


僕は飲茶式のカレーがあれば良いのにと思っている。小さ目のお皿にカレーライスやカレー・スパゲッティー、或いはカレーうどんにドライ・カレーを別々に盛り付けて、トッピングが自由に選べるようになっている。量が少ないので、いろんな種類のカレーが一度に味わえて愉しい。


8年前、カレー・メロンなる新しいアイデアを考案したので、プレゼンテーションを行なった。早速、レストラン『カレーハウス』(ハウス食品)の関係者が、「これは行ける!」と語勢を強めながら身を乗り出して来た。


メロンの原産はアフリカだが、一説にはインドとされる。古のインドには、もしかするとカレー・メロンなる代物が存在していたかも知れない。





2011年5月10日火曜日

早くしないと




早くしないと


川粼 洋


 


夕日が沈む時


そのにぶい光が


遠くの景色を


みんなぼかして


ふわふわ美味しそうな色にする


 


さあ早くそれらを


かさかさとかき集めなきゃ


それ


僕の手の中で


横倒しになる森や屋根や煙突


世界は四角で木が一本だけ生えている


と思って死んでいった赤ん坊


その赤ん坊のそばの窓


早くその窓を閉めなきゃ


 


その戸が男の子の手で閉められたばっかりに


一生を台なしにした女


早くその戸を集めなきゃ


 


早くしないと


ある夕方


巨きな腕が


ゆっくり空を掻き


景色達はうっとり


その腕で空に溶けていってしまうから


早くしないと


さあ


 


 


2004年10月21日、腎不全で川粼 洋さんが死去した。七十四歳だった。


 


今回は、川粼さんの第二詩集『木の考え方』の中から、「早くしないと」を紹介させていただく。


まず、この詩を読んでみて、モティーフが希薄であると考えるのは間違っている。なぜならば失意がモティーフであり、焦燥と不安がテーマとなっているからだ。


当事者以外には、つかみ所のない日常の些細な出来事や、目に入るあらゆる風景や生物、そして人物などから、一見、希薄と思われる象徴詩が誕生する。


往時の川粼さんは生活苦と闘いながらも、詩作においては諧謔(かいぎゃく)の精神を貫き、象徴的なポエジーに血路を見出していた。


即ち、川崎さんはこの詩を書く上において、モンタージュの技法からヒントを得ながら、周辺の美と焦燥を見事に謳いあげているのである。





2011年5月9日月曜日

ムービー




渡米して30年の間に、『ET』、『アメリカン・ビューティー』、二つの映画しか観に行ったことがない。


いずれも、友達に誘われて映画館へ足を向けた。誘われてなかったら、全く映画を観やしなかったであろう。


それほど僕は、映画に関しては無頓着な人間だ。俳優の名前も全く知らない。古い俳優ならば覚えている。


映画の都ハリウッドのお膝元に住んでいる割には、映画に興味が湧いたことがない。こんな僕でも感動した映画がある。『東京物語』、『荒野の七人』、『思い出の夏』、『卒業』。


15歳の頃に観た映画は、『思い出の夏』。主人公は僕と同じ15歳の少年、やがて少年は、年上の女性と恋におちいる。


僕はこの頃、大阪の警察病院に入院をしていた。4歳年上の看護婦さんに片思い。映画の主人公と僕とだぶらせた。


映画は、ミシェル・ルグランの甘く切ない曲が流れる。





朝のデッサン




 


 鎖の付いた光彩


 


白い手で蠱惑(こわく)するときめき


 


朝もやの悪戯


 


ペパーミントの幻想


 


もう それだけで


僕自身


 


十分なんだ





2011年5月8日日曜日

証しにならない




アメリカ人の教会を借りて、在米日本人のための伝道集会が開催された。企画をしたのは、日本人クリスチャンの若者たち。


若者はステージで聖歌の曲を演奏して賛美する。聖書の拝読、証し、説教ありで、伝道集会は成功裏に終わった。


クリスチャンは見られている。ノンクリスチャンはクリスチャンに期待されている。


先ず、品性を持って笑顔で誠実に生きることだ。クリスチャン全員が微笑んで、明るく生きるならば、それだけで伝道になる。


伝道集会を開いた若者のクリスチャンは集会終了後、教会の掃除と諸々の後かたづけを怠った。教会の牧師は頭(かぶり)を横に振った。


若者は顰蹙(ひんしゅく)を買うことになった。神様を伝えても、これでは証しにならない。





2011年5月7日土曜日

よだれが出るよ!




何べんも言うようやけど、大阪には安くて旨いもんが、ぎょうさんおまっせ! ホルモン焼きと言えば大阪、『ホルモン本舗』西中島店は、安価で珍しいホルモンの宝庫や!


塩アキレス、塩コリコリ、オッパイ、コブクロ、カズノミ、マシュマロ(フク)、メニューの一部


七輪で豪快に焼くホルモンは、よだれが出るよ! ホルモン・ナンバーワンの『ホルモン本舗』。


東京にもあるでぇ。


大阪市淀川区西中島3‐19‐2 三ツ矢ビル1階    06‐6307‐8929    無休





焼き肉




焼き肉チェーン店『焼肉酒家えびす』で、ユッケを食べた人が食中毒で死亡した。恐ろしい話だ。人ごとではない。


僕も年に何回か、焼き肉のレストランに赴く。カルビ、テッチャン、ユッケ、生レバーを毎回注文する。


自宅の近所の焼き肉屋、PCHの『たまえん』。たまにコリア・タウンまで足を延ばす。


この度の事件で、ユッケは「トリミング」を施してからサーブされることが分かった。今まで、僕は知らなかった。


『牛角』では、あらかじめユッケは熱処理を施している。これも知らなかった。これから夏にかけて、食中毒の季節を迎える。


調理人は、衛生管理を怠っては絶対にならない。


松阪の駅前で、焼き肉(ホルモン焼)食べたいよーっ!!!





2011年5月6日金曜日

詩三篇




 


勝利


 


「負けるが勝ち」


年齢を重ねるごとに


この言葉の意味が


重みを帯びてきた


 


負け惜しみではなく


自分の心を解放することによって


相手の心までもが変わってくる


 


「負けるが勝ち」


謙遜は神様に愛される


最良の近道だと思う


 


 


 


 



 


裸一貫で渡米して


富と名声を手に入れることが


アメリカン・ドリーム


 


けれども


時として夢は


落とし穴だらけの


自滅の道でもある


 


マザー・テレサの信条は


「なくても与える」


 


より少なく持てば


その分 より多く与えられる


より多く持とうとすれば


より少なく与えることしかできない


 


真実の夢には


力強い愛が見える


 


 


 


 


自制


 


ジャン・コクトーは語った


「金持ちになった貧乏人は


贅沢な貧しさをひけらかすであろう」


 


聖書は伝えている


「わたしの恵みは


あなたに対して十分である」


 


ソルジェニ-ツィンの21世紀論の一つは


「真の精神的満足は


何かを手に入れることではなく


それを拒否することによってのみ得られるのである」


 


 


 


 


 


 





2011年5月5日木曜日

食育




アメリカ人は週末になるとスーパーに、一週間分の食料を買い出しにやって来る。大きなショッピング・カートには、缶詰、冷凍食品、清涼飲料水が山と積まれている。不健康な食品ばかりを買い込む。客も従業員もみんな肥満体。


アメリカ人は老若男女を問わず、甘い物が好きだ。これでは子供の頃から、生活習慣病に罹ってあたりまえだ。 


即刻、食育に一石を投じたのは、ミシェル・オバマ大統領夫人。アメリカの未来を担って立つ子供たちが、ジャンク・フードの餌食になっているという。(『「パン」について考える』参照)


経済大国なのに、食文化は貧困だ。アメリカのスイーツは強烈に甘い。着色料をふんだんに使う。国民を病気に陥れる。


今、ミシェル・オバマの提案に、真剣に耳を傾ける時が来た。





詩碑誕生




 2005年の秋、リトル東京のど真ん中に、重さ一・七トンの詩碑が建立された。大理石に刻まれている詩文は、加川文一(一九八一年、歿)の『海は光れり』(一九四一年、作)。


僕の目には、この艶やかな岩石のモニュメントが、『鉄柵』や『南加文芸』で活躍していた猛者(つわもの)たちの、友誼に厚い証としての金字塔に見える。


この『海は光れり』という詩は、冒頭の加川夫人の短歌も含めて、近代抒情詩の、そして移民文学の傑作である。


「きょうも海は光れり」。この脈々たる希望の精神は、文一の妻に対する限りない包容力の表明である。文一の絶唱は、これからリトル東京に憩う人々の、心のよりどころとなるに違いない。


除幕式では、『南加文芸』の同人であった山中真知子さんが、詩の朗読に入る前に、天国にいる加川文一に届けとばかりに、「加川文一、あなたの詩碑が建ちました。あなたが暮らしていた日本人街に建ちました…… 」切々と語る口調が、真に感動的であった。


『南加文芸』は不滅である。そして、この地に文学を愛好する者が、数多くいることを認識させられた。


夕べ、僕は独りで、色無き風のなかに佇み、文一の詩碑と対峙しながら、詩文を音読してみた。


 


 


妻よ


今日も海は光れり


人の住む陸を抱きて


するどく海は光れり


 


 


結びで感極まった僕の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


『詩碑仰ぐ一掬の涙秋深し』





2011年5月4日水曜日

大ショック




江美子の従妹の子供が、日本語学園共同システムのスピーチ・コンテストに出場するという。僕たちファミリーはリトル東京にある、会場となっている禅宗寺を訪れた。


スピーチ・コンテストに参加する生徒は約55人いた。僕は病気になる以前に、審査員を務めた事がある。コンテストは4時間近くもかかった。惜しくも従妹の子供ジャキーは、入賞を逃がした。日本語を勉強し始めてから8ヶ月、ジャキーは非常に優秀な子供で、16歳の時に大学に入学した。


僕はジャキーと約束をした。メールで日本語を教えると。


帰りにみんなと一緒に、18年振りに『こけこっこ』(カテゴリー食、参照)で焼き鳥を食べた。味が落ちた、美味しくない、僕は大ショックだった。もう、二度と行くまいと決心した。





2011年5月2日月曜日

ドナルド・キーン




日本文学研究者のドナルド・キーンさん88歳が、東日本大震災をきっかけに、日本に永住(帰化)されることが、このほど決まった。独身を通してしてきたキーンさんは、「私は日本という女性と結婚した」。彼は日本の国をこよなく愛しているのだ。


僕はドナルド・キーン先生の『太宰治論』に、異論を唱えて四半世紀が経つ。旧ラッパを吹くひつじ『太宰治』参照。


日本文学の碩学を前にして、まことに僭越な発言をして来たものだ。僕は未だに僕の見解が正しいと、一徹に信じている。





詩集/『時』/中尾照代




中尾照代さんが、この春に詩集を上梓された。詩集は二部構成になっており、読み応えのある詩が約二百二十篇収録されている。装丁は限りなく瀟洒にまとめられていて、表紙と見返しに配されている浅緑の色調は、著者の控えめな心情を彷彿とさせてくれる。


本詩集は私家版であるが、目次も奥付も附帯されていない。どうやら目次は作者の意向で、最初から省略するつもりでいたらしい。


そのようなことはさて置き、数々の詩篇がテーマに応じて躍動しているので、読者を惹きつける魅力を十分に秘めている。また、詩を一篇、二篇と読み進めていくうちに、それぞれの作品が、バラエティー溢れる独自の手法で描かれていることに気づかされる。


今、中尾照代さんは詩集『時』を携えて、現代詩壇へ清新な息吹を投げかけられた。


他者を「愛すること」。この深みのある愛の原点を座右の銘に、中尾照代さんは昨日も、今日も、そして明日も、詩を愛する如く、牧師夫人として世界中の人々に慈しみの手を差し伸べられている。このような彼女の真摯な姿勢から、詩集『時』は生まれたのである。


 


 



 


いさんで開けたら


その中に


きれいに並んだたくさんの虫がいて


それが次第に


棘のついた棍棒になり


氷石になり


毒針になって


私に飛びかかって来た


 


その怪物はみるみる巨大化して


私の胸をめった打ちにし


私の頭をズタズタにして


地面にたたきつけた


もう立ち上がれないほどに


 


親しい者から贈られた


紙切れの中にいた


恐ろしい怪物


 


 


 


キュウリ


 


噛じるキューリよ


おゆるしください


 


体のためでも


舌のためでもなく


ただ胸のにがさを


なだめるために


 


涙をふりかけ


噛じるキューリよ


私の非礼をおゆるし下さい


腹に着くまで忍んで下さい


 


 


 



深刻な顔をして


一人道を急ぐ犬に出会った


難事にぶつかった時の


人間の顔つきそっくりだった


 


どうしたの


どこへ行くの


思わず振り返って声をかけたが


犬はどんどん行ってしまった


 


そうだよなあ


人生にはいろいろあるんだよなぁ


見上げた空の


顔色が少し悪かった





2011年5月1日日曜日

祈りのリクエスト




江美子のために祈ってください。彼女は午後8時から翌朝の8時まで12時間、星を戴いて毎晩仕事にいそしみます。特に週末は疲れて帰って来ます。


従いまして、教会には殆どいけません。僕が闘病者でなかったら、江美子の仕事量が三分の一に軽減されます。


ハレルヤ、くっそう、ハレルヤ、くっそう、歯を食いしばり、イエス様と共に歩む毎日が続く。


 





天国




僕よりも何百倍もの信仰があっても、イエス様に癒されもせず殉教していく者がいる。


僕は甘い。永遠の命、天国を見上げて生きようではないか!





罪人




イエス様の癒しを信じていても、時たま焦りが生じる。一生、右半身不随だったらどうしょう。


中々受け入れがたい現実。


元気なうちはいいが、歳をとったらどうすれば良いのか分からない。


苦悩を心に秘めて、生きて行くしかない。


受け入れたくない現実。僕は弱い。


僕は、ものすごくひ弱な罪人だ。





ジャワ・カレー




小学生の頃、今は亡き父と二人で、大阪から京阪電車に乗って、京都の神社仏閣巡りをするのが楽しみだった。


毎回、京都で夕食を済ませてから帰阪することになっていたので、父はよく、四条川原町にあったカレー料理の専門店『ジャワ』に僕を連れて行ってくれた。


このレストランにはカレーライスのフルコース・メニューがあって、前菜とスープの次に魚料理がサーブされる。その後で、いよいよメインのカレーライスの登場となる。


コースは四段階あって、父はいつも下から二番目の八百円のコースを注文した。僕はカレーといえばインドだと思っていたので、ジャワ・カレーといわれてもしっくりこなかった。


だが、それ以来、父と一緒に何回かこのレストランに通うようになった。それは言うまでもなく、『ジャワ』のカレーの味にすっかり魅了されてしまったからだ。最初に食べたカレーがあまりにも旨かったので、ぼくは本当に頬っぺたが落ちてしまうのではないかと心配したぐらいである。


それから何年か経って、ハウス・ジャワカレーのCMがテレビに流れるようになった。京都の『ジャワ』とはすっかり疎遠になってしまっていたが、今度は母が、家庭でジャワ・カレーを作るようになった。母が作るジャワ・カレーの中身は、入念に炒めた狐色の玉葱をふんだんに使い、カレー用の肉の代わりに、挽肉がどっさりと入っている。


だしの良く効いた和風ジャワ・カレーは、とっておきのおふくろの味なのである。