レモン哀歌
高村光太郎
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置こう
詩集『智恵子抄』(一九四一年刊行)に収録されている「レモン哀歌」は、智恵子夫人が歿してから五ヵ月後の作である。書き出しと結びの二行を見れば、死歿してから何日かが経過して作られた作品であることが窺われる。
智恵子が亡くなったのは、昭和十三年(一九三八)の十月である。往時の日本国内におけるレモンの普及状況は定かではないが、レモンの収穫時期は秋なので、容易に手に入れることが出来たのであろう。
盛夏から秋果に掛けては、葡萄、桃、りんご、柿など旬の果物が多い。光太郎は『智恵子の半生』の中で「わたしの持参したレモンの香りで洗われた彼女は、それから数時間のうちに極めて静かにこの世を去った」と書き記している。
では、どうして光太郎はレモンを選んだのかと、まず考えてみた。例えば時節の一輪の花や、智恵子が情熱を傾けていた紙絵ではいけなかったのか、或いはりんごや葡萄では光太郎の意識は感応しなかったのであろうか・・・。
やがて私は、一つの結論に達していたのである。「レモン哀歌」は詩であると同時に、絵画であり彫刻であるのだと、強く全身で感受したのだ。
かなしく白く、あかるい死の床がカンバスであれば、そこには智恵子とレモンが描かれてある。そしてレモンをがりりと噛んだトパアズいろの香気が立ちこめている。
このあまりにも立体的な詩には、光太郎と智恵子の愛の証しが、哀しくも美麗に刻まれている。そして、私は即座に察知した。このオブジェ(「レモン哀歌」)は、円く、大きく、自然そのものを表現しているが、そこには彫刻家であった光太郎が、欧州に留学していた時分に師事したロダンの人柄と作風に、大きな影響を受けていた。
この詩の終結は、智恵子が逝ってから初めての芳春を迎えている。すずしく光る山吹色のレモンに、桜の退紅色が添えられていて、哀歌は艶やかな一枚の油彩となって結ばれている。
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