2010年10月31日日曜日

パンク




サンタモニカ大通りをドライブしている時、突然車が傾いた。直ぐにパンクだと分かった。右の道へ入って、住宅街で車を止めた。タイヤを確認していると、


「大丈夫ですか」と、声をかけられた。こんなところに日本人が、後ろを振り返ると黒人の女性が立っていた。


「私の家は直ぐそこよ、トリプルAが来るまでコーヒーでもいかが」


「それにしても、日本語がお上手ですね」


「私、日本に住んでいました」


パンクが直って別れ際に、女は名刺を差し出した。その名刺には女優とだけ書いてある。僕も名刺を渡した。


時が流れて、女から電話が掛って来た。すしバーで会うことにした。


「私の彼、日本にいるの。今度日本に帰る時があったら、彼に渡してほしい物があるわ」


暫くして女とまた会った。


「彼に渡してほしい物は、人形よ」


目の前にビニール製の人形があった。


僕は週末に日本へ帰る用事があった。


「彼は空港で待っているわ、その場で渡してくれれば結構です」


日本に帰る前日の晩、スーツケースの中から人形を取りだした。ビニール製の人形は、硬いが首の所が取れる。気のせいか人形が重く感じる。人形を振ってみた。中でかすかなに音が聞こえる。首の所から開けてみようかと躊躇したが、思いとどまった。


人形は手荷物にした。空港でチェクインを済ませて、出発ロビーで時間をつぶした。人形の事が気になる。思い切って人形の首の所を開けてみる。


ビニールの袋に入った白い粉が出てきた。まさか、コカイン。指の先へ付けて舐めてみた。


間違いなくコカインである。危うく運び屋にされるところであった。僕はコカインをゴミ箱へ捨てた。


女と眼があった。女は空港に来ていたのだ。女は逃げるようにしてその場から立ち去った。


 





Joy




親は無くとも子は育つとは、よく言ったものである。僕が病気をしてから、ジョイのめんどうを見てやれなくなった。


学校の送り迎えから、宿題、遊び、塾。時には学校の帰り道に、公園に寄って遊んだこともしばしばあった。学校が終わってから、デズニーランドへも何度か行った。


夜になれば、近所の鮨屋に食べに行った。ジョイはその鮨屋のアイドルだった。ある時、ジョイに「おとうさん、病気なってごめんね」って言った。すると、ジョイから「おとうさん、謝らなくてもいいよ。おとうさんは、何にも悪いことしていないのだから」


今日も、ジョイは元気だ。ジョイの元気な姿を見ていると、何だか元気が湧いてくる。学校への送りは、近所の牧師がやってくれる。迎は家庭教師がしてくださる。


全てを主に委ねて、何にも心配することはない。





2010年10月30日土曜日

お願いがあります




全世界のクリスチァンの方々に、お願いがあります。


私のために、執り成しの祈りを行ってくだい。


私は右半身不随と言語障害と末期癌です。


イエス様お癒しください。





Joy 2




家庭教師を付けたお陰で、ジョイの成績はクラスで一番だ。来年の春ごろまでには、ピアノのレッスンを再開させるつもりでいる。


土曜日の日本語学校へも通っていますが、今、ジョイは、空手を習い始めました。ジョイの才能は水泳にあると、僕は見ました。家人も同調しました。近い将来、スイミング・スクールに通わしたいと思っている。


教会でも、学校でも、ジョイの評判は高い。礼儀正しい、優しい、聖書を暗唱している。この文章を書いてみて、親ばかチャンリンだと思いました。


ジョイを見ていると、闘病生活を忘れてしまいそうだ。








小川の川辺に白い花が咲いている


その傍らに 白い心のあなたが座っている


何と美しい姿なのだろう


僕が近づくと すべてが仄暗くなる


僕の心の中に 突然垂れ込める否定的な思い


どうして ぼくはパウロのように


弱い時にこそ強くなれないのでしょうか


主よ


主よ どうか僕の灰色の心を


純白の渚で満たしてください


 


2001-7-29        新井雅之





秋の夢




今日は通院の日。それにしても美味い物が食べたいなー。一日中美味い物を食べる事を考えている。病人の風上にも置けない。


食べづらいと、日々ぼやいているのに、まさかこのような状況になるとは、夢にも思わなかった。病院の帰りに何ぞ美味い物でも、食べに行くか。


闘病生活をしていると、美味い物が食べたくなる。ここで一句


「闘病にご馳走並ぶ秋の夢」





ポエトリー




十三年前の春に、初めてパリヘ赴いた。


朝から夜遅くまで仕事に拘束された出張であったが、一日だけの非番を利用して、私はモンパルナス墓地に埋葬されているボードレールの墓に、真っ先に詣でたのである。


昼前になって小雨が降りだしたが、知己がホテルまで車で迎えに来てくれたので、ミラボー橋まで案内してもらった。かねてからパリヘ行くことがあった ら、この橋の上に立って、ギィヨーム・アポリネールの詩『ミラボー橋』を音読しようと決めていたのだ。生憎パリの空は灰色の影を落としていたが、念願が 叶った私はパーッと欣快になった。


以来、私は度々パリの街を訪れるようになった。ボードレールが『悪の花』を執筆したセーヌ河畔のホテルで、『現代フランス詩論』を読み、モンマルト ルの丘のホテルでは、トリスタン・ツァラの詩集を読みあさり、モンパルナスのカフェではジャン・コクトーの詩についてペンを走らせた。


ビクトル・ユーゴやマラメル、ヴァレリーにランボー、そしてアンリ・ミショーらの詩人の偉業が、今でもパリの街中に色濃く漂っている。これほど詩人の匂いに満ちていている繁華な街路は、世界中どこを歩いても辿り着かないだろう。


さて、詩は英語でポエム(poem)とポエトリー(poetry)に分かれる。前者は個々の詩作品である概念(固体概念・単独概念)を指し、後者は詩の本質である概念の内包である。


日本語には「詩」という単一的な言葉しかない。従ってポエムとポエトリーを同義的に捉えてしまう傾向がある。ポエムは「詩」と訳していただいて差し 支えはないが、明治の初めに外山正一らの提言で始まった『新体詩』を、ポエトリーと正式に訳すことによって、自由詩の抽象性を定義付けすることは出来な かったのだろうか、と考える。


明治十五年に出版された『新体詩抄』の序文には、以下のように謳われている。「この書に載する所は詩にあらず、歌にあらず、しかも之を詩というは泰西のポエトリーという語、即ち歌と詩を総称する名にあるのみ。古よりのいわゆる詩にあらざるなり」


私はポエム「詩」に対して、ポエトリーを「新体詩」あるいは「自由詩」と解するように心掛けている。


新井雅之



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2010年10月29日金曜日

スワヒリ語




和夫は海外旅行が趣味である。どうして海外に出掛けるのが好きかと言うと、特殊なマシーンを持っているからである。和夫は外国語が苦手である。そんな和夫が外国人相手に、すらすらと喋るのである。英語、フランス語、スペイン語、中国語、何でもござれである。


和夫は海外へ行くと、口元にマスクの様なものを付ける。マシーンである。その名も自動通訳機、マスクをかけて日本語で喋ると、瞬時にしてその国の言葉に訳される。


ある日、和夫は外国人の女性と恋に落ちた。これも自動通訳機のお陰だ。二人は結婚を誓い合った。正しく幸せの絶頂である。甘い新婚生活もいよいよスタートして、バラ色の人生を和夫は満喫した。


和夫は今晩、出張に出掛ける。和夫は夜遅くまで仕事をこなした。ホテルヘ帰る道すがらバーに立ち寄ることにした。元来、和夫は酒好きだ。この日はすっかり酔っぱらってしまいました。泥酔である。


どうやってホテルにたどり着いたのか、皆目見当がつきません。その夜、ベッドに倒れ込むようにして眠りました。朝起きて、はたと気づきました。自動通訳機が見当たりません。バーへ直行しました。朝早いので店は閉まったままだ。


夜になって自動通訳機を探しました。どこを探しても見当たりません。道を探しても。ホテルの部屋を探しても、もう、絶望だ。


出張先はブラジル。言葉が全く通じません。細君に電話を掛けるにしても、これまた言葉が通じない。和夫は途方にくれました。


兎に角、飛行機のチケットはあるので、国へ帰ろう。フランスへ帰ったら何とかなるさ。機中で、和夫は上着の内ポケットに腕を突っ込んだら、自動通訳機が出てきたではありませんか。和夫は、にんまりとほくそ笑んだ。自動通訳機が正常に作動するか試してみた。


日本語で喋ってポルトガル語になるか試してみた。何処かおかしい。壊れている。日本語で喋ってスワヒリ語になる。もう駄目だ。


細君はフランス語と英語だけだ。夫婦なのにコミュニケ―ションが取れない。どうしょう。和夫は自宅に到着した。和夫は細君にスワヒリ語で話しかけた。


最初は冗談かと思っていた細君。だんだんと険悪な表情へと変わって行った。暫くして細君もスワヒリ語で喋りだした。


細君は学生時代アフリカへ留学していたので、スワヒリ語は得意中の得意であった。ジャンボ!


新井雅之





おなごの春 




 春うらら


眠れるフリューゲル・ホーンの渚に


くんぬりと赤錆びた 若いおなごの匂いがする


おなごの下着のたもとで 山吹色のフリューゲル・ホーンが鎌首をもたげる


光沢のない碧苔(へきたい) 花のいない春


柔らかくて鋭いビオラの窓の外 春の憂鬱が漂う


黄昏にたなびくカンツォーネ おなごの太い肉声


四角い円い部屋に あめ色に輝くビオラの夕べ


真夜中の春


ウエストコースト・ジャズ


限りなくけだるいバリトン・サックス


あなたは遠くへ行ってしまった


ブルーノート おなごの春の風景


おなごの春   新井雅之


 





ガーデナの味処




Interior
California Fish Grill

僕はかつて、ガーデナに7年間住んでいた。美味しくて安いレストランはないものか? と、誰もが考える。


日系(日本)人が多く住むガーデナに、昼時になると長蛇の列が出来るレストランがある。不思議なことに、混み合うレストランの中には、いつ赴いても日系人と思(おぼ)しき人物の姿が見当らない。


はて、このレストランは、アメリカのレストランによく見られる、廉価とボリュームだけが売りもので、味覚の点では日本人から総好かんを食らっているのかと思っていた。


ところが食べてびっくり、「うまい、安い、新鮮」の三拍子。一人で数人分テイクアウトする顧客の姿が絶えない。レストランの名前は『California Fish Grill』。焼き魚にかける特製オリジナル・ソースは、実にファンタスティック!


場所はアーテジア・ブルバードとノーマンディーのコーナーにある『ゲイトウェイ・プラザ』 内。


同じくガーデナに、「うまい、安い、ゴージャス」なレストランがある。メニューを見ると、街のコーヒー・ショップよりも二割ほど安い。味の方は、コーヒー・ショップが束になってかかってきてもかなわない。ダイニング・ルームは高級ホテルを彷彿する。


このレストランは、知る人ぞ知るレドンドビーチ・ブルバードとバーモントのコーナーにある『Hustler Casino』の二階にある。


カジノ内にあるので、来店できるのは二十一歳以上だが、意外と静かで空気も奇麗。そしてサービスも良い。


最後にLAで一番うまいアサダ(ビーフ)ブリトーの店を紹介する。屋号は『Albertitas Mexican Food』、場所はウエスタンとガーデナ・ブルバード。肉汁とワカモレ、自家製ホット・ソースのオラトリオがたまらない。病み付きになることうけあいである。

新井雅之





暗夜(やみよ)




黒い夏天の裂け目から


長虫のような首を覗かせて


真夜中に鳥が鳴く


大都会のど真ん中をめがけて


鳥の鳴き声だけが


びんくるビンビン


夜のしじまに響きわたる


 


鳥はまるで疾風(はやて)のように鳴く


人々が深い眠りの中に死んでいる間


すっかり冷えきってしまった蒼黒の大地に向かって


鳥は


狂ったように鳴き叫ぶ


 


半分開いた窓の外に


墨色をした大きな鳥が一羽


人を食ったような顔をして


びんくるビンビン


俺のされこうべをつついていやがる


 


暗夜(やみよ)   新井雅之


 


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忍耐




昔の僕だったら、苦難が襲いかかって来たら、現実を拒否していただろう。大病をしてから塗炭苦しみに遭遇しても、現実を受け入れることができると思う。


近頃、頓に忍耐という熟語に対して、熱い思い入れを感じている。人間が最も必要な事は、忍耐する心じゃないでしょうか。


真の精神的満足は、忍耐することから始まるのではないでしょうか。





2010年10月28日木曜日

思いで




毎日が暇だ。それでいて時間の経つのが早い。健康な時と比べて、読書量がかなり減った。


読みたくない。集中力がない。飽きっぽい。


情けない。最盛期にはひと月で五六百冊読んだのに。僕が日本にいるとき、出版社に籍を置いていた。本を読むのが仕事であった。出版社では文芸雑誌を発行していた。寄贈されて来る本を片っ端から読んだ。寝る時と食事の時以外は、本を読み続けた。そして文芸雑誌に書評を書くのだ。


往時、資料室を担当していた僕は、投稿されてくる詩や小説に添削を施すのである。あの頃が懐かしい。


年に2、3回、文芸人と交流があった。思い出深いのは、大阪天王寺の飛田遊郭『百番』に於いて、詩人の小野十三郎さんを囲んで、六人で座談会をやったことである。全員が詩人であった。


編集部は環状線寺田町駅、林寺町にあった。編集部へ向かう途中で、腹ごしらえをするのが習わしとなっている。行きつけの小さな中華料理店の暖簾をくぐると、僕に「きょうはどっち」と聞く。長年通っているが、僕はチャーハンと中華丼しか頼まない。


ここのチャーハンと中華丼、美味かったなー、アメリカへ来ても忘れられない味。今度、帰国したら一度訪ねてみたい。


僕は帰国するには自信が持てない。右半身不随であるからだ。周囲の人に迷惑がかかるから。そうなれば、チャーハンと中華丼が食べられない。難波の夢は夢のまた夢。


大阪へ帰ったら、行きたいレストランが沢山ある。心斎橋の『明治軒』、『プランタン』、千日前の『治作』、鶴橋の『宝海楼』、江坂の『民宝』、阪神デパート内の、『つるや』、曽根崎の『ゆかり』、他。


子供の頃によく行った、母の田舎である高知県にも行きたい。叔母と伯母が二人いる。もう、伯(叔)母達は不帰の客となってしまった。


この原稿が脱稿して、夕暮れどきに、僕は俳句を詠んだ。


「なつかしむ思いでキラリ秋の海」


 新井雅之


 





買い忘れる妻




妻は夕食の用意をしている。今晩のおかずはすき焼きだ。食卓に着くと妻は叫んだ。


「お肉、買い忘れた!」


肉の無いすき焼きは寂しくて、惨め。玉ねぎ、しらたき、焼き豆腐だけで食べた。


今日も妻は夕食の用意をしている。今晩のおかずは刺身だ。頂きますと言ってから妻は声を荒げた。


「山葵と醤油、切れているわ!」


山葵と醤油抜きで食べる刺身は、味気ない。二人で塩を振りかけて食べるしかない。


「会社の帰りに、僕がすき焼きの材料を買ってきてあげるから、君はご飯を用意してくれればいいんだ」


すき焼きを作る段階になって、妻があわてた。


「調味料、買い忘れた!」


この日の夕食は、仕方なく水炊きで食べました。勿論、調味料なしで。





アメリカへ来なさい




今日は水曜日、通院する日である。自宅から病院まで自動車で45分かかります。ホテルの様にきれいな病院です。


癌にかかって、死ぬのが嫌でしたらアメリカへ来なさい。City of Hope(病院)で治療したら良いでしょう。癌研究にかけては、アメリカは日本より10年進んでいます。医薬品も日本では認可をされていない薬が、沢山あります。


10月21日の日記に書きましたが、City of Hopeは、癌治療にかけては世界一です。





2010年10月27日水曜日

持つかな?




後150年後には、東京と大阪間は5分で結ばれる。


それまでに地球は持つかな?


後200年後には、月にホテルが建つだろう。


それまでに地球は持つかな?


後120年後には、人類の間で戦争が無くなる。


それまでに地球は持つかな?


 


新井雅之





『懐石』と『会席』




少し気の利いた日本料理店では、前もって予約を入れなくても、懐石(会席料理)をサーブしてくれる。では、『懐石』と『会席』はどのような違いがあるのだろうか。


各時代の代表的な宴会料理を比較すると、平安時代の大饗料理、室町時代の本膳料理、安土桃山時代の懐石、江戸時代後期から現代に至る会席料理などが挙げられる。


懐石の由来は、禅僧が厳寒と飢えをしのぐために、焼いた石を布に包んでから懐に入れて暖をとったことに始まる。腹つなぎに食べる茶懐石は江戸後期に考案されたが、ご飯と汁物が同時に添えられた「向こう付け」に始まり、酒も一緒に振る舞われた。


同じ時期に完成した会席料理は、民間料理として定着して行き、本膳料理を基にして簡略化されたいわゆる腰掛け料理の一つである。また、茶や俳諧などの人の集まる場を会席といった。


そこで、現代の一流料理店で、『懐石』と『会席』を区別する基準を、「吉兆グランヴィア店」(京都)店長の杉井啓吾さんに伺ってみた。


『懐石』では料理のコースに抹茶を出すのが基本。吉兆では「おもてなし料理」が主なので『会席』を使用しているが、一般的に、料理を出す側の気構えを示すという意味で、『懐石』を用いる料理屋が多い。因みに会席料理とはいうが、懐石料理というのは間違いである。


新井雅之


 


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恵みなり




術後、一ヶ月も経つというのに、常に首が絞めつけられている感じがする。食べにくい、飲みづらい。


イエス様どうかお癒しください。そして皆様の執り成しの祈りをお願いしたい。


一句浮かびました。「恵みなり首絞められて秋高し」


 





俳句 2010 春 2  




1. 山笑うこのイースターに光あれ


2. クリスチャン冬萌になれたくましく


3. 春うらら味読音読詩篇読み


4. にぎやかにジョイの花咲く春休み


5. 母さんにジョイ𠮟られてかすみ草


6. 羅府に来て大志を抱き夢破れ


7. 一人きり孤独の街に春一番


8. 恋に落ち相思相愛羅府の春


9. 片思い手つなぎの道春の夢


 ※  2010の春、これらの句を詠みました。(新井雅之)





間違いを探せ




 * 次の文章を読んで間違いを探せ


アマチュア女相撲トーナメントも、間もなく結びの一番となる。決勝戦が始まろうとしていた。


かつては女人禁制と言われていた土俵上で、四股を踏んでいるのは巨漢のA子。昨年はB子に負けたが、またもや決勝戦で顔を合わせることになった。今年は何としてもB子に勝って、汚名挽回したいA子である。


【答え】


女人禁制(にょにんきんぜい)・・・男子禁制(だんしきんせい)と読むが、女人の場合は女人禁制(にょにんきんぜい)と読むのが正しい。


巨漢・・・漢には男の意があり、巨漢といえば体の大きな男性のことをさす。巨漢の女性は誤用。


汚名挽回・・・汚名は返上するもの。名誉挽回





親孝行




たまには親孝行をしたいと思う。されど母親は日本いる。そこで物を送ろうと思いついた。JALギフトのカタログをみる。


アイスクリームと雲丹(うに)酒盗、それから刺身用ボタンエビを贈答しようと考えた。三ヶ月前にも、サクランボと玄界灘の干物を送っている。


墓には布団は着せられん。生きている間に親孝行。


 


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地 獄




子供の頃に和歌山県の小さなお寺で、住職の説法を聴いたことがある。本堂の壁には、地獄の恐ろしい責め苦のようすを描いた『地獄変相』の絵が掲げられてあり、住職はその絵に指を差して、生前に罪を犯した者は地獄行きになると説いていた。


地獄の総称である『奈落』とは、サンスクリット語(梵語)のナラカの音訳であるが、特筆すべきことは、本来、地獄の観念は仏教には存在していなかった。説教を施す上で悪人を改心させるためには、「奈落の底に陥るぞ」といった威迫のある戒めが必要であった。そこで仏教は『地獄』の観念をヒンズー教から採り入れたのである。


ヒンズー教では地獄の入り口に死者の世界があって、閻魔(エンマ)がこの世界を支配している。死者はこの世界で生前の行為を審議されて、諸説によれば何百とある地獄(ナラカ)へ振り分けられる。


俗に言う「地獄極楽はこの世にあり」とは、善悪の行いの裁きは、生きているうちにはっきりとあらわれるという意味である。極楽の楽しみは現在が幸せであること、地獄の苦しみは幸福であったことである。


新井雅之


 


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2010年10月26日火曜日

言葉 




夏目漱石が金銭を例に挙げて言葉について語っている。


十銭をもって一円の十分の一と解釈するか、一銭の十倍と解釈するかは人によって異なる。言葉も同じように、言葉を遣う者の見識によって高くも低くもなる。


芥川龍之介は、あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具えていると言う。例えば「敏感な」という言葉の一面は、つまるところ「臆病な」と言うことに過ぎない。


それでは、「言葉」を生かす為の配慮とは一体どういうことなのだろうか。日本語には敬語があるが、相手の年齢貴賎に関係なく、言葉を浄化して豊かにしてから伝えることである。日常会話に於いても同じである。

「歩」という語は少し止まると書く。ただ闇雲に歩み続けている訳ではない。言葉も口からすらすらと発する前に、少し止まって、言葉を吟味してみることが肝要なのである。


「言葉が生きていれば小人でも軽々と運べるのだが、言葉が死んでいれば、怪力の巨人でさえ持ち上げることは出来ない」、(ハイネ/ドイツの詩人)

新井雅之


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至福の時




僕の平均的な日課は、食事して、昼寝して、物を書いて、コンピューター相手に将棋をすること。家族と話をして、ディボーションの時を持つ。


病気をしてから、アルコールを飲むのは年に数回。もともとタバコと博打はやらないが、女はご法度。


これから一日に一度、江美子に不随の右手のマッサージをやってもらいます。至福の時です。


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2010年10月25日月曜日

Yoshioさんありがとう




 『帰って来たひつじ』と題したWebサイトをYoshioさんに立ち上げてもらった。そのブログの中には、4年の歳月を経て『ラッパを吹くひつじ』が復活したのだ。


僕は考えた。『新ラッパを吹くひつじ』を書こうと。僕は闘病生活の身である。昨日、教会へ行って来た。皆が僕の手術の成功は奇跡だという。術後、後遺症が無いのも奇跡だといった。


家人は嬉しくてたまらないのだろう。後遺症がほとんどないのですと、皆に説明している。実は本人にとって後遺症があるのだ。食事をするとき食べづらくなった。飲みにくくなった。


本人取ってみれば、大きな問題である。いたって飲み食いするのが好きな僕にとって、うまく咀嚼できないということは、苦痛である。


神様、全て癒してください。昨日教会に行っている時に僕は思った。イエス様に委ねるだけじゃだめだ。委ねきれないと駄目である。


教会の帰りにチャイナタウンへ寄って食事をした。食べにくい。ため息が出る。イライラする。僕の傍らで家人が、ナイフとフォークでしゅうまいを食べやすいように切ってくれる。僕の右手が動いたならばと思いました。


この日は、何時もより従業員の皆さんが親切に思えた。フカヒレ・ダンプリンが美味しかった。ローストダックもジューシーで美味である。


家人と二人で飲茶を食べるのは久し振りである。飲茶に行けば先ずコッポー茶、それからハウカウ、しゅうまい。僕と家人の定番である。


飲茶を食べたのは、『エンプレス・パビリオン』だが、この近くに『チャイニーズ・フレンド』と言うチャーハンの美味しい小さなレストランがある。高くて美味いのは当たり前、ここのチャーハンは安い、美味い、早い。三拍子そろっている。


チャイナタウンの帰りに、リトル東京へ寄って車で一周して帰った。リトル東京も随分と様変わりしたものだ。セカンドとセントラルにある加川文一の詩碑の前で車をとめた。今から5年前に詩碑を建立したのだ。僕も詩碑設立の委員の一人に加わっている。加川文一の詩を英訳したのは僕である。


自由になりたい。一人で車を運転して、何処かへ行きたい。何処へ行くにしても、家人と一緒。たまには一人になりたい。


そのあと、ターゲットとミツワに寄って家に帰りました。ジョイ(娘は)プレイデイト中。僕が病気で倒れたために、ジョイの日本語の特訓は出来なくなりました。主に委ねます。


今晩の夕食はミツワで買った大トロとかんぱちの刺身。そして、お漬物とみそ汁。新しく始めたブログによって、僕は救われました。未来に対して希望が持てました。 Yoshioさん有り難うございました。


新井雅之


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ハレルヤと病もめぐみ主に感謝




去年の1月に、脳の手術をしました。癌細胞を除去するためです。開けてみたらピンポン玉くらいの腫瘍がありました。


一ヶ月前にも甲状腺と左首リンパ手術をしました。同じく癌細胞を除去するためです。僕は身も心も傷だらけです。


アメリカへ来て、大手術を行うとは夢にも思いません。癌になるとは思いもよりませんでした。一句浮かびました。「羅府に来て大志を抱き夢破れ」


なんと、ネガティブな俳句。夢はこれからだ。「ハレルヤと病もめぐみ主に感謝」今から聖日礼拝に行って参ります。


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2010年10月23日土曜日

(旧)ラッパを吹くひつじ




Hitsuji_logo_1

2002年から2005年まで運営していた、私のWebサイト「ラッパを吹くひつじ」はこちらです。

新井雅之





キリストの愛、燦燦と - 病後の感謝の証し -




2008年9月25日。昼ごろ、自宅のリビングルームで、独りでくつろいでいる時、私は身体の異変に気づきました。即座にストロークであることが、自分なりに把握できたのです。


幸いにも、まだ少しだけ体が動きましたので、直ちに911へ通報しました。それから先は、意識が途絶えてしまって、知る由もありません。


病院のICUにいた折りに、お見舞いに来てくれた友人と家人は、往時の状況を振り返って、「もう、駄目か!」と、思ったと述懐しました。脳卒中で倒れて以来、右半身不随と言語障害で、一言もしゃべる事はできません。おまけに癌が4ヶ所から見つかりました。


甲状腺に端を発し、リンパと肺と脳に転移していたのです。さらに驚いたことに、脳の腫瘍から出血して、ストロークを引き起こしました。


耳は聞こえておりましたので、ドクターの検査報告だけは、はっきりと聞き取れました。


「ステージ4です。(末期癌です)」


その日の夜、薬の副作用の影響から、幻聴のようなものが聞こえてきました。


私は持病に、40年来のうつ病歴があります。夕べ、ドクターから末期癌の宣告をされたにもかかわらず、一向に落ち込む気配すらないのです。


ある日、知り合いの牧師が、病院へお見舞に来られました。その牧師から聖書の御言葉が与えられたのです。その箇所とは、出エジプト記の15:26です。


言われた、「あなたが、もし、あなたの神、主の声によく聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」


傍らで聴いていた家人は、驚きの表情で、聖書の個所が病院のアドレスと同じであると言うのです。1526 Edgemont Street 私は、神様が導いてくださいましたこの病院に対して、深く感謝致しました。


これもひとえに、教会の皆様の、とりなしの祈りに支えられているのだと言うことが、ひしひしと伝わってきました。イエス様に示されたことは、悔い改めることと、もう一つが、この世で憎む者がいれば、無条件で許してあげなさいということです。


それ以来、かぐわしい花の色香ともに、こころの底から喜びがあふれて、とどまることを知りません。


おかげで、脳の手術をする際に、一切を主イエスにゆだねて、うららかな平安を得ることができました。この弱虫の頭(かしら)が、これほどまでに強くなれるのです。この、大いなる恵みに感謝致します。


間もなく、倒れてから1年と3ヶ月が経過しようとしいています。相変わらず右半身は不随のままです。まだ、口も自由に喋ることはできません。癌細胞も体内に残っています。けれども、知って下さい。イエス様の癒しの奇跡を……  私は信じて疑いません。


私は病後1年と1ヶ月ぶりに、8歳の娘のために詩を書きました。この詩は、私の現在の気持ちを素直に表現したものです。それと同時に、イエス様から明確な啓示を賜ったのです。


 



喜びをいだいて この山をのりこえよう


歯を食いしばり この大きな山を


笑顔で登ろう


 


わたしは風 涼風(すずかぜ)の光 きょうも賛美あふれる


わたしは風 若葉みどり風 あしたも笑っているよ


 


喜びをいだいて この波をのりこえよう


歯を食いしばり この大きな波を


笑顔でかわそう


 


わたしは風 涼風の光 きょうも賛美あふれる


わたしは風 若葉みどり風 あしたも笑っているよ


 


喜びをいだいて この嵐をのりこえよう


歯を食いしばり この大きな嵐を


笑顔で耐えよう


 


わたしは風 涼風の光 きょうも賛美あふれる


わたしは風 若葉みどり風 あしたも笑っているよ


* この『詩』には、間もなく曲が付けられます。


私は何とも、不思議でたまらないのです。聖霊様に誘(いざな)われて、私は一番弱い時にこそ、強くなれるのです。私はどん底に突き落とされた時に、希望の光を見出すことができるのです。私は病魔と闘っている時、心の平安を得るのです。


きょうも主に祈りを捧げて、イエスの御名を褒め称えよう。すると、キリストのたおやかな愛が、我がうちに燦燦(さんさん)と降りそそぐのです。


新井雅之


2009・11・7


 
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生かされている




俺の体内で戦争が始まった


俺の脳で爆弾が炸裂した


俺の胸に核が落ちた


 


俺の心は獣(しし)のようだ


俺の口はホトトギスになった


俺の手と脚(あし)は岩になった


 


俺の神経はカタツムリになってしまった


俺の肉体は雲である


俺の吐く息は韓紅へと染まる


 


俺の眼(まなこ)は激しく痙攣(けいれん)する


俺の首を誰かが絞めつける


俺の内臓は網で焼かれた


 


それでも まだ 俺は生きている


全てを主に委ねて 俺は今 生かされている


 


生かされている

2008年9月25日


 


 


 


 


*  2009・12・31  新井雅之


 


 


 


 





喀血




一昨年の11月、カイザー病院から退院して五日後に、喀血をしました。911に電話を入れて、直ちに入院、直ぐに手術をしました。


あの時は、びっくりしました。とめどなく口から血が流れ出る様子は、死んでしまうのではないかと思いました。


話は変わりますが、アメリカでは救急車を呼ぶと、必ず消防車が対になって来ます。未だに分かりません。





余命




倒れてから一年くらい経ってから、


「あの時、医師からあなたの余命は長くて三ヶ月と言われました」


家人からその話を聞かされて、江美子もショックだったろうにと思いました。


今日は金曜日、ハウスキーパーが来る日、僕は書斎に引っ込む日。





2010年10月22日金曜日

主の愛 ― 感謝の証し ―




私が健康な時分に、医師から末期癌の宣告をされて、リスクはあるが手術は必要ですと言われたら、目の前が真っ暗になり、落胆していたことでしょう。本来、気弱な私は悲観の挙句、奈落の底へ落ちていたかもしれません。


2010年9月27日。病気で倒れてから2年余りの歳月が流れて、2回目の手術が始まろうとしています。甲状腺と左首リンパの手術をするためです。共に癌細胞を除去する目的のためです。


医師からは、リスキーな手術であることは、前もって聞かされていました。それ以前に、2軒の病院で手術の可能性を伺いました。検査の結果、かなりのハイリスクであると同時に、末期癌であるという理由で手術は断念。キモセラピーで、癌細胞が広がらないようにするしか方法がないと知らされました。


今、City of Hope病院で、ハイリスクの手術が始まろうとしています。私が病で倒れてから右半身不随と言語障害がありますから、術後はその症状が更に酷くなる可能性を秘めていると医師から言われました。


覚悟しておくことは、輸血の必要性、頸動脈をそけい部からの移植、術後は、声を失い顔面麻痺。左腕が動かなくなるかも知れません。と医師から告げられました。私は右半身不随の上に、左腕も動かなくなったら寝た切りになると思いました。おまけに口も利きけないのであるのなら、生きて行く価値がないと思わされました。


一瞬、目の前が闇でふさがりました。「イエス様、助けてください!」


しかし、こうなれば「まな板の上の鯉だ」(御心のままに)と、私はそう呟きました。普通のまな板の上の鯉と違っていた事は、主に全き信頼を寄せる鯉であったことです。


癒し主、救い主、王の王、主の主。イエスに委ねて、賛美して手術に臨む決意を新たにしました。


手術の当日に病院へ行って、僅か3日目で退院することができました。術後の痛みや後遺症も殆どなく、左腕も動きますし、喋ることも主を賛美することも出来ます。


ハワイの中村裕二牧師から届いたCDを聴いているうちに、この文章を書きたいという思いなりました。正にCDのタイトル『聖霊の風』が吹くようです。


ノンクリスチャンの友人からは、「新井さんは生命力が強い」と言われますが、神様が私を生かしてくださるのです。それと同時に、教会の皆様と他のクリスチャンの方々の熱心な執り成しの祈りが、私の生命を主に導いてくださるのです。


今年の春に作った俳句が、今、秋風に棚引いています。『癌病みて神の計画に喝采』私はイエス様に感謝の気持ちが堪えません。そして私のために祈り、支えてくだいました皆様に、心より感謝申し上げます。


最後に俳句を一句詠ませていただきます。


『秋の虹御心のまま生かされる』


 
新井雅之


2010年10月2日


 


 





俳句(2010の春)




1.      癌病みて神の計画に喝采


2.      暖かだ家人の看護イエスの手


3.      リハビリに励みし朝の春暖炉


4.      江美子の手やさしさ光るシクラメン


5.      ジョイの顔アジサイみたい可憐だね


6.      牡蠣食えば鐘が鳴るなりノートルダム


7.      夜祈り菜の花愛でて朝祈り


8.      わが心教友ありて花かんば


※  2010の春、これらの句を詠みました。(新井雅之)





末期癌




本日、病院へ検診に行ってきました。


2008年9月25日。ストロークで倒れました。検査の結果、癌が4箇所見つかりました。医師からはステージ4、末期癌ですと告げられました。以来、闘病生活が続いています。


僕が通院している病院はCity of Hopeと言います。或る人が言っていました。


「この病院は癌治療にかけては、世界一です」


僕はストロークの後遺症で、右半身は不随のままで、おまけに言語障害もあります。まだまだ闘いは続きます。





2010年10月20日水曜日

プロフィール






新井雅之(あらいまさゆき)

1955年、大阪市生まれ。1981年渡米、遊学、様々な職業を体験しながら、コラムニストして活躍。スタンフォード大学名誉教授L.Cポーリング博士に師事。1993年Litt.D.,Ph,D(文学博士号)修得。