2011年5月18日水曜日




詩を書けば誰でも詩人である。僕も詩を書くので、周囲の者からは詩人として紹介されることがしばしばある。しかし、未だかつて自ら詩人であると名のったことはない。それは詩人に対する深い畏敬と、高貴な詩の世界へのあこがれがあるからだ。


僕の書く文章は水に浮かぶカワウソの戯れに過ぎない。彷徨のエトランゼ気取りで、少しささくれていたい気持ちが、いつも細波(さざなみ)のように僕の胸底に打ち寄せ、時として砂漠の砂を噛む思いで現実を呪う。多分、多重とか虚像とか、そして光とか宇宙といった限りなく屈折する相剋に、僕は迷い込んでしまったのだ。


黄昏に、牧歌的たたずまいの小径を歩いていて、馥郁と漂う木犀の香りにつつみ込まれた瞬間、ふと、素直な自分に充足と安らぎを覚えるのだが、詩を書くことは、僕にとってはその瞬間をいつまでも継続させる純白であり、解放ですらある。


そして本当の自由とは神(God)の御前に跪き、頭(こうべ)を垂れて自分の罪を悔い改めることから始まるように、僕の詩業もまた、つねに新しく生まれ変わることから出発する。そして新しい第一歩にはにかみと狂気を携えて、僕は、僕自身を、僕自身は、僕を模索し始める。


旧ソビエトの亡命詩人ヨセフ・ブロッキーが若いころ、「詩は教えられるといったものではなく、神様から来ると思う」と語った。最近つとに思うのだが、詩を書くことは、神から与えられた仕事であると考え始めている。換言すれば、「詩人の声は単なる人間の記録に留まるだけではなく、人間が耐え、勝利するのを助ける柱の一つとなること」。このフォークナーの詩人の義務に起因する。


T・Sエリオットが、ボード・レールからの衣鉢を、明瞭な倫理的また神学的な基準をもって吟味した上で、世界中の詩人たちに伝達したように、僕もまた、デカダンスの奥義に翻弄されることなく、常識や人間の知識と理性にあって小さくも大きな傲慢に屈せず、のべつ謙虚な態度で文学と対峙していたい。





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