2010年11月23日火曜日

許しについて(下)




つい此間、私はある人物から嘲弄されるという目に遭った。しかもその人物は、私の身辺の知人や友人に対して、根も葉もない事をでっち上げて吹聴するのである。私は、随分と質の悪い人間に係ってしまったことを後悔した。そしてその人物の、あまりにも卑劣な言動に対して、私はついに怒り心頭したのである。


人間、怒髪天を衝くと、人を許すなどという概念は消滅してしまっている。しかし、クリスチャンの末端に名を連ねている私は、神様に祈ることだけは忘れなかった。やがて日時が経過して、この問題について祈っていると、不思議と心が平安になってきたのである。


この人物は尋常ではないのだ。そうこうしているうちに、人格異常者に翻弄されている自分の姿が、恥ずかしく思えてきた。そしてイエス様が十字架上で語られた言葉が、私の脳裏に棚引いたのである。


私はそれ以来、その人物の悪い行いである罪を憎んで、その人物自体は心から許すことに決めたのである。そして何よりも、主が私と共に居られるという確信が、今まで以上に強く感受できたことは、忍耐と祈りによる紛れも無い勝利であった。


他者を許せないという思いは、許すことの出来ない自分自身を許してしまうことになる。私のような凡夫は、余人には厳しくて自己に対しては寛大である。けれども自己を熟知して、人間を知り尽くすということは、自己には厳しく余人には寛大であるべきだ。


「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)。この十字架上のイエスの言葉こそが、愛と寛容に満ちた真理の聖句なのである。


この世の紅蓮地獄に陥ってしまったフランクル(『許しについて・上』参照)は、どのような悲惨な状況に遭遇しようとも、沈着冷静な態度で物事を客観的に捉えている。まさに超人的な精神力の持ち主であるのだが、その体験を通して、数多の人々に大いなる感動と多大な影響を及ぼしている。


果たして、自分の人生を奈落の底へと突き落とした、憎むべき人間を、本当に心の底から許せるものだろうか…… 若干(そこばく)の疑問が湧いてくる。けれども、先にも述べた通り、人生のどん底にこそ神の真理がみなぎり、神の祝福に満ちていることは、先人の体験告白や「証し」を通して、私たちは周知している筈だ。


私がクリスチャンになったばかりの頃に、礼拝の説教でミス青森の話しを聴いて感銘を受けたことがある。多分有名な「お証し」なので、多くの読者がご存知であろうかと思うが、まだ知らない方々のために、記憶の糸をたぐって出来るだけ忠実に粗筋を組み立ててみたい。


さて、女性であれば、誰もが美しくありたいと願うのは人情である。その美しさを競い合う青森のコンテストで、Aさんはみごと優勝の栄冠を獲得した。しかし、この判定に強い不服を唱える準ミスのBさんは、ミス青森の美貌を妬むのであった。


後日BさんはAさんを待ち伏せして、卑怯にもAさんの顔に煮え湯を浴びせたのである。Bさんは警察に身柄を拘束されると、やがて傷害罪で服役することになった。一方、Aさんはというと、華やかなミス青森の栄誉から一転して、焦熱の苦しみに喘いでいた。


自分の一生をめちゃくちゃにされたAさんは、Bさんに対して、筆舌に尽くし難い憎悪の念に満ちていた。Aさんは千辛万苦を味わいながら、煩悶の日々に暮れる毎日を送っている。やがて時は経ち、AさんはBさんに面会するために刑務所へと向かうのであるが……


 遅かれ早かれ、Aさんが怨念をぶちまけに刑務所へやって来ることを、Bさんは覚悟していたのである。AさんはBさんと対面すると、しばらくの間Bさんの目を凝視した。やがて沈黙を破って、AさんはBさんに向かって、開口一番「ごめんなさい」と謝罪したのである。


耳を疑ったのはBさんである。きっとAさんは自分をからかっているに違いない。そのうちに罵声と嘲りが飛び交ってくる。と思うのだが、意外にも火傷を負ったAさんの赤らんだ顔が穏やかであった。


「Bさん、あなたを恨み続けてごめんなさい。私を許してください」。Aさんの目から涙が溢れていた。Bさんは信じることが出来ません。しかし、Aさんの言葉が真実から語られていることを悟ると、大声を出して泣き崩れた。やがてBさんは、心の底からAさんに謝罪したのである。


この事件を通して、二人はクリスチャンへと導かれて、友情を育むことになったという証しである。


二人にとって、このような不幸な事件に見舞われていなければ、おそらく神様と出会うチャンスは無かったのかも知れない。そして「愛」を超越したAさんの「許し」が無ければ、真の救いは得られなかったのだろう。


私はこの時、説教を聴きながら、Aさんこそが真のミス青森だと確信した。もはや容姿などは問題ではない。Aさんの生粋な心意が、限りなく美しいからだ。


「他者を許すこと」は、言うは易く行うは難しである。だが、御子イエスの愛を真剣に考える時に、必ず私の耳元でたおやぐフレーズがある。


「人は許すことを知らなければならない。まず自分自身を許し、つづいて広くみんなを許すことを」(『許しについて・上』参照


 


 


 


 


 


 





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