2010年11月19日金曜日

許しについて(上)




ソール・ベローの小説に『この日をつかめ』(Seize the Day)というのがある。私は、この小説の主人公、ウィルヘルムが語ったであろう陰の声を、時おり思い出すことがある。それはトミー・ウィルヘルムが、人生の極限状況の中で語られているフレーズである。


「人は許すことを知らなければならない。まず自分自身を許し、つづいて広くみんなを許すことを」


人を愛することは容易い。けれども、人を許すことは容易ではない。聖書の御言葉を引用すると、以下のように記されている。「すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情け深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。(エペソ4:31~32)


私は、主を賛美しながら、いつまでも心の片隅に憎しみが眠っていることがあった。ふとした瞬間に、その憎しみが鎌首をもたげると、とにかく怒りがこみ上げてきた。「あいつだけは、絶対に許せない!」。私は心の中で、このように叫んでいたのである。


どうして人を許すことができないのか。と考えた末に、いつしか私は、ソール・ベローの小説の中で語られている言葉を思い浮かべるようになった。「はて、私は自分自身を本当に許しているのだろうか?」


神様がキリストにあって、私の罪を赦してくださったというのに、私はなかなか自分自身を許しきれなかったのである。そしてその延長線上に、人を許せないという気持ちが執着していたのだ。


さて、いっさいの悪意を捨て去りなさい。と聖書には綴られているが、この私においては、憤りの度合いに違いはあれ、怒りがよく芽生えてくることがある。これはちょうどパウロが、「わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」と告白しているローマ人への手紙、第7章と類似している。(旧ラッパ・アゴラ『善と悪』参照)


次に、元来、人間の内面に潜んでいる善と悪の二重性について考える前に、ここでは、まず怒りについて考察してみたいと思う。


三木清は『人生論ノート』の中で、避けるべきであるのは憎しみであって、怒りではないと言い放っている。即ち、突発的怒りは純粋性、単純性を示し、習慣的憎しみは習慣的に永続する憎悪であると考えられるからだ。突発的怒りは、元来人間が抑えられるべき行為ではない。また、絶えず怒っているということは、連続した憎しみであると考えられる。


太宰治が、あの人(イエス・キリスト)を揶揄する短編小説『駆け込み訴え』の中で、私であるイスカリオテのユダに「怒る時に怒らなければ、人間のかいがありません」と語らせている。だが、カーライルの考え方は、怒りが爆発して争いが生じた場合、我々はもはや真理のためではなく、怒りのために争うことになるので、留意せよと促している。そして旧約聖書にも、「怒りをおそくする者は勇士にまさる」と記されている。


ここで再び、人を許すという行為に対して考えてみたい。今から35年以上前に遡るが、往時、15歳であった私は、極度の神経疾患に悩まされていた。私は煩悶の挙句、若気の過ちによって睡眠薬を多量に服用したのである。


幸いにして発見が早かったために、私は一命を取り留めた。その際に入院をした病院の主治医から、読んでみなさいと言って手渡された本が、フランクルの『夜と霧』であった。以来、この本は私の愛読書となり、座右の書となっている。


この本は第二次世界大戦の最中に、ユダヤ人としてアウシュヴィッツ強制収容所に囚われたフランクルが、奇跡的に生還するまでの一精神分析学者の体験が、赤裸々に綴られている。


ナチス・ドイツのオーストリア併合によって、フランクルと彼の両親、妻、そして二人の子供が拿捕された。アウシュヴィッツへ送られてからは、フランクル以外の家族全員が、ガス室行きを命じられて、次々に殺されてしまった。


正にフランクルの体験をして生き地獄とは、このことである。このような奇異な極限状況の中で、フランクルは人間愛について述懐している。「即ち愛とは、つまるところ人間の実存が高くかげり得る最後のものであり、最高のものであるという真理の烙印である」。


そして特筆大書したいことは、「一方(囚人)が天使で、一方(ナチス)が悪魔であると説明することはできないのである」とフランクルが説破していることだ。


私は、アウシュヴィッツにおけるナチス・ドイツの残虐な行為を、この世の地獄絵であると解していたし、囚われて殺戮された善良なユダヤ人に対して、哀悼の意を表さずにはいられなかった。もしも私が、フランクルと同じように、アウシュヴィッツの強制収用所に収監された囚人であったとする。そして自分の目の前で、最愛の妻と子供をガス室で殺害されたならば、きっと私は、狂い死にしていたであろう。


けれども、どん底に突き落とされて暗黒の辛酸を舐めなければ、見えてはこない、聞こえてはこない真実が存在していることも事実である。その真実とは神の栄光であり、神からの祝福なのである。


カソリックの信徒で作家の曾根綾子さんは、『夜と霧』の読書感想を以下のように述べている。たとえ自分をとりまく状況が、人間性からかけはなれたものであっても、フランクルは人間の善意がどのような人にも…… つまり彼らを苦しめる側にもあることを否定しない。「従って一方が天使で、一方が悪魔であると説明するようなことはできないのである」とフランクルは言い切る。この血を吐くようなたった一つの言葉でさえ、まだほとんどの日本人は自分のものとしていないのである。





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