2010年11月24日水曜日

格別な計らい




昔から「氏より育ち」と言われているのは、人間は氏素性(うじすじょう)よりも教育が大切であり、血統よりも境遇が人格を形成するからである。従って八歳ぐらいまでの情操教育は枢要な位置を占めている。


幼い頃に身につけた習慣は、「雀百まで踊り忘れず」、「三つ子の魂百までも」、「源清ければ流れ清し」、などの諺でも表現されているように、老年になっても退歩することがない。乳幼児期に規則正しい習慣を体得していると子供と、そうでない子供とでは、小学校に入学する頃から、その違いが歴然として表れてくる。


幼児期に机の前に座る習慣を怠り、絵本の読み聞かせや読書(音読)、簡単な算数、そして創造力の開発と自主性、更には自己表現の能力を培わない懶惰(らんだ)な生活を続けていると、取り返しのつかないことになってしまう。


よく耳にする話しだが、小学校高学年や中学生になってから、「うちの子供は全く勉強してくれません。どうすればよいでしょうか」と、悩みを打ち明ける父兄を見受けることがある。これらの子弟は、幼児期に机の前に座るという習慣を学ばされないまま育って来たに違いない。


今、教育問題について、熱心に取り組んでいる研究者の殆どが、同一問題で警鐘を乱打している。それは小学生から学ぶ英語の学習だ。文部科学省では国語の授業を削って、英語の授業を増やすことを容認している。


米国には数多くの日本人の子弟が、英語学校を始めとして専門学校や大学に留学している。また、日本国内に於いては、学力の低下が叫ばれて久しい。留学生は英語力を培うことを第一の目標に掲げているのだが、それ以前に、彼らの日本語(国語)能力は惨憺たる物である。


母国語である国語を疎かにしておいて、外国語(英語)を修得しようとする心構えは、実に愚かな話しである。その点に於いて、中国人やフランス人は母国語を誇りに思っている。その美しい言語と語勢で、母親が子供に読み聞かせをしている。何と素晴らしいことだろう。


幼児教育に於いて最も肝要なことは、読み聞かせと音読、そして簡単な計算である。特に音読と計算は、老齢にいたるまで継続することによって、脳の前頭葉を活性化してくれるという。近年、痴呆症を予防するために、或は緩和させるための治療方法としても脚光を浴びている。


読み聞かせと音読、そして簡単な算数を毎日欠かさずに行うことによって、幼児の能力開発に寄与することは、世界的に著名な研究者や教育関係者の間でも、今や常識となっている。従って、小学校や中学校で実践している現代の学習方法は、明らかに誤謬を極めていることになる。


公文(トーレンス)の西尾誠一郎先生の講演で知り得たことだが、音読に最適な言語は漢字であり、漢字にひらがな混じった文(日本語)は、脳を刺激する上で世界最上といわれている。これらのことを証明する一つとして、脳障害児の治療と幼児の才能開発で世界的に権威のある、グレン・ドーマン博士が、世界中から集まってくる脳障害児に対して、漢字を用いた治療方法をいち早く取り入れている。


私は、音読の大切さを常々理解していたが、絵本にしろ童話にしろ、闇雲に子供に本を与えるのではなく、先ず親が十分に書籍の内容を吟味してから、良書のみを子供に与えるように心掛けてほしい。この図書の選択は非常に重要なことであるので、怠らないで慎重に取り組んでいただきたい。


一例を挙げると、同じタイトルの絵本でも、表現が軽率であるものや、て・に・お・はなど、文章が不適切な場合がある。更に翻訳された童話になると、これらの不備は数多であるからだ。


音読をするにあたって、絵本も童話も小説も、散文が中心となっている。私が声を大にして述べたいことは、韻文の音読である。日本には短歌や俳句という素晴らしい定型詩が存在する。韻文は子供の感性と創造力を育み、集中力を高めてくれるのである。


私には、五歳の娘が一人いる。二歳から始めた英才教室では、聖愛幼稚園の藤村俊次園長のご指導により、ひらがなからではなく、漢字を銘記することから学習が始まった。更に諺、俳句、百人一首を記銘すると、保持して再生する訓練を怠らない。


当初は、大人ですら難解な百人一首を、幼児が暗誦できるものかと不安であった。けれども、英才教室に参加して四年経過したのであるが、娘は諺と小林一茶や松尾芭蕉などの俳句を、二百十句丸暗記してしまった。そして百人一首は、ようやく半分(五十)まで暗誦を終了させるにいたった。これらの学習は英才教室の一部であり、定型詩の音読は銘記することが目的ではない。あくまでも記憶の回路を幼児の脳に構築するための研鑽である。


ところで老若男女が音読するにあたって、世界最高の図書をご存知だろうか、それは言うまでもなく、漢字とかなのまじった日本語の『聖書』である。聖書には詩と散文が織り成されている。しかも法律の書、歴史の書、預言書、手紙の数々、そして福音書の集大成だ。


神様は日本語という格別な計らいを持って、私たちを愛して、愛して、愛して…… これでもかと愛してくださっている。


 


 


 





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