2010年12月10日金曜日

現代書冊考




休日を利用して家人と一緒に書店へ出向いた。本屋を何軒か回ってから、古本屋にも足を運んで、結局11冊の絵本と童話を購入した。


早速、娘(4歳)に読み聞かせをしたのであるが、その後で、解説のところを読んでみて、児童文学を研究している大学教授が、トルストイの文学は人間愛に基づく人道主義に貫かれている。と語っていたので、些かがっかりとさせられた。


人間愛に基づく文学作品をひと言で表現する場合に、人道主義が貫かれているというのは、あまりにも概念的で表象的ではない。この場合は、少なくとも博愛、もしくは相愛主義に貫かれていると解説文を改めてほしかった。


少なくともと前置きをしているのは、博愛主義や相愛主義、或は汎愛主義であると解説書に明記をしても、完璧な解説には至らないからである。即ち、「人は何によって生きるか」、「イワンのばか」、「パンのかけらと小悪魔」など、トルストイの一連の文芸作品には、キリストの愛が色濃く貫かれているのだ。と断言しなければ、的確な評釈として認めるわけにはいかない。


日本の一流出版社が発行している世界文学全集の解説を読むと、文芸評論家の面々が的外れの論評を縷々と語っていることがある。その最たる要因は、欧米の作家や詩人たちが聖書を通して、神の摂理を如何に把握しているかということに、目もくれないからである。せいぜいキリスト教文化の影響下で過ごしていた。と考察するのが関の山である。


わが国の文芸人は、聖書を一度や二度は読んでいるであろう。また、神学を深く追究している文人も、寡少ながら存在するものと思われる。けれども、文学者特有の懐疑精神があまりにも旺盛なために、トルストイにしろ、ドストエフスキーにしろ、あるいはソルジェニーツィンであれ、これらの文学作品を講評する際に、信仰と文学を隔離してしまう傾向が窺われる。


平たく申し上げると、原作者の信仰とキリストの教えが、文芸評論家には全く理解し得ていないので、荒唐無稽の説に陥ってしまっている。


さて、数年前に、『ダ・ヴィンチ・コード』の話題で盛り上がったことがあるが、物議が大きくなればなるほど作家や出版界の商業主義に、世論は益々翻弄されてしまうことになる。だからと言って、カソリックの諸教会や組織、そして信徒たちが、馬耳東風を決め込めば、世間一般に対して誤解を招きかねない事態となる。


物語はフィクションであると周知していても、熱心な読者諸氏は事実よりもフィクションの方が真実であると思い込むようになるからだ。世の中というものは、歴史の事実を証明する文献よりも、現代の流行作家が仕立て上げたフィクションを、信じようとする傾向があるようだ。


例えば、史学の学術論文が証明している歴史上の人物の生涯よりも、大河ドラマで描かれている家康や秀吉、あるいは信長の生き様が強く印象に残り、事実と混同させながらも、とどのつまりはフィクションのストーリーを信じてしまっている。


生前、司馬遼太郎さんが歴史小説を発表する度に、歴史学者や郷土史家たちから抗議の手紙が殺到した。いわんや、司馬さんが描くストーリーや時代背景に対して、学者たちは事実無根であると訴えるのである。


その度に、司馬さんは判子で捺したように、「私が書いているのは小説です。フィクションなのです」と、弁明された。


『ダ・ヴィンチ・コード』にしても、小説が出版された折よりも、映画が封切られた時の方が事態は深刻である。それほどビジュアルの影響力は大きいのである。しかし、どのようなデマが飛び交おうとも真実はひとつしかあり得ない。それは、聖書に書かれていることだけが唯一正しいのである。


 もはや情報化社会は日進月歩である。ネット上で本が購入できる時代である。出版業界は手を替え、品を替えて、ありとあらゆる手段を駆使して営利主義のみに奔走する。その先陣がベストセラーと呼ばれている書物の数々なのである。


「ベストセラーとは、凡庸な才能を鍍金した墓場である」と述べた泰西の偉人がいたが、古典や近代に、ごまんとある名著を差し置いて、現世の低俗なベストセラーばかりに心を奪われる老若男女はおろか、世の中で先生と呼ばれている指導者的立場にある人物が、ベストセラーであると謳われている書物に、うつつを抜かしているのが現状だ。


本にまつわる格言で、好きなのがある。「古木は燃すべく、古酒は飲むべく、旧友は信ずべく、古書は読むべきである」。


その古書とは、現代人に生きた言葉を伝えている永遠のベストセラー、聖書に置き換えることができる。私は、聖書こそが世界文学全集の第一巻に、最も相応しい書物であると信じている。何故ならば、まずは知識として聖書を読み始めることによって、神の言葉の全てが、始まろうとするからだ。





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