2011年1月9日日曜日

志賀直哉と市原先生




6月24日の聖日礼拝で、市原信生師の説教を敬聴しながら、私は何時になく強く感じ入るものを察していた。


私はよく牧師の説教を聴きながら、牧師が語るセンテンスの組み立て方を基にして、引用の手段や、解題法、描写力、間の取り方から抑揚まで、メッセージの内容を概評しながら、牧師を小説家に譬えてみる妙な癖がある。


例えば市原先生の説教は、小説家でいうならば志賀直哉である。凛と筋が通っていて、実にリアルであるからだ。昂る事を好まず森羅万象を謙遜の眼で凝視しながら、相克を超越したたおやかな美しさは、まるで御使いたちが降らせた秋さぶの驟雨(しゅうう)のように、何時までも私の魂に響くのである。


 私は礼拝後に、その旨を市原先生にお伝えしたのであるが、市原先生はきょとんとして、怪訝な表情に染まってしまった。私は間髪を容れずに、


「志賀直哉は小説の神様です」


と伝えた。そうすると市原先生は、まるで子供のように相好を崩された。


文学に親しんでいた若い時分、私は志賀直哉が大の苦手であった。というよりも、直哉の小説を濫読しては酷評していたのである。即ち私は、白樺派に属していた作家たちを忌み嫌っていたのである。しかも、その徒党のなかで、格別な嫌悪感を私に漂わせていたのが志賀直哉の小説であった。


渡米後も、私はジャーナリストの知人や日米比較文学を専攻している学生たちと、文芸時評を語り合いながら、たまさか志賀直哉の小説をこき下ろしていた。


ところが四十路に入って間もなくしてから、私は白樺派の文学に言及する評論を執筆するために、志賀直哉の小説を再び味読したのである。その時わたしは、目からうろこが落ちるとは、こうゆうことなのか、と合点したのである。


今日まで私は、どうして直哉の文体の美しさに、気づかなかったのだろうかと深く省察した。取分け『城の崎にて』を読み返した折には、私はすっかり直哉の文章に魅了されてしまった。これこそが、胸を熱く打つ文章芸術の感動だ。直哉の小説は秋さぶの驟雨のように、何時までも私の魂を揺さぶっていた。


志賀直哉は、自分に最も影響を与えた尊敬する人物として、武者小路実篤と内村鑑三を挙げている。人道主義・理想主義を標榜する白樺派にあって、謹厳実直であった直哉は、この二人の師匠からキリストの教えと、文学の礎を伝授されたのである。


ところで、少し話は逸脱するが、現代のキリスト者は、どうして武者小路実篤や内村鑑三の著書を読まなくなってしまったのであろうか。キリスト教関連の出版社は、新しい本を次から次へと発行することばかり考えないで、近代の名著を現代訳に改めて、どんどん再出版してほしい。けれども、採算が合わないということであれば、おそらく、もはやそれまでなのだろう。


市原先生はかかりつけの医師から、「あなたは病気のデパートですね」と告げられたそうだが、病の床に臥した2002年の呻吟は、金輪際体験したくない程の千辛万苦であったという。


人間、誰もが心身ともに健康で、平穏無事な生涯を過ごしたいと願望している。だが、病気はためになることが数多である。と喝破したのはロマン・ロランというフランスの作家だ。なぜならば、肉体をいためつけることによって、魂を解放して浄めるからだという。従って、一度も病気をしたことがない者は、十分に自己を知り尽くしていない。


市原先生は礼拝のメッセージで、カール・ヒルティの『眠られぬ夜のために』から、珠玉の一文を引用されていたが、私はヒルティの『幸福論』から「病気」に言及している記述で、感銘を受けた箇所を紹介したい。


「幸福は健康がなければ生じないというのであれば、悲しいことであろう。だがそれは真実ではない。不幸な病人があると同様に、幸福な病人もあるのである。病気と幸福とは、絶対に対立せるものではない」(幸福論・第三巻/正木 正訳)


志賀直哉は17歳の折に内村鑑三を訪ねてから、約7年に及んでその門人となったが、なまぬるいキリスト教徒として終始した。以前にも書いたが、直哉を始めとする近代の文学者たちが、キリスト教を享受した一因は、西欧浪漫主義に対する憧憬に過ぎないのである。その根底には文学者特有の懐疑精神が旺盛なために、ことごとく福音信仰から遠ざかっていった。


だが、信仰は勝利なのである。病気のデパートである市原先生が、力強く拝読された聖書の御言葉(イザヤ書/40:28~31)が、真夏日に忽然と姿を現した樹氷のように、私の心のなかで無数の閃光を放っていた。


「しかし主を待ち望むものは新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」


 





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