2010年10月26日火曜日

言葉 




夏目漱石が金銭を例に挙げて言葉について語っている。


十銭をもって一円の十分の一と解釈するか、一銭の十倍と解釈するかは人によって異なる。言葉も同じように、言葉を遣う者の見識によって高くも低くもなる。


芥川龍之介は、あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具えていると言う。例えば「敏感な」という言葉の一面は、つまるところ「臆病な」と言うことに過ぎない。


それでは、「言葉」を生かす為の配慮とは一体どういうことなのだろうか。日本語には敬語があるが、相手の年齢貴賎に関係なく、言葉を浄化して豊かにしてから伝えることである。日常会話に於いても同じである。

「歩」という語は少し止まると書く。ただ闇雲に歩み続けている訳ではない。言葉も口からすらすらと発する前に、少し止まって、言葉を吟味してみることが肝要なのである。


「言葉が生きていれば小人でも軽々と運べるのだが、言葉が死んでいれば、怪力の巨人でさえ持ち上げることは出来ない」、(ハイネ/ドイツの詩人)

新井雅之


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© 2010 Masayuki Arai


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