夏目漱石が金銭を例に挙げて言葉について語っている。
十銭をもって一円の十分の一と解釈するか、一銭の十倍と解釈するかは人によって異なる。言葉も同じように、言葉を遣う者の見識によって高くも低くもなる。
芥川龍之介は、あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具えていると言う。例えば「敏感な」という言葉の一面は、つまるところ「臆病な」と言うことに過ぎない。
それでは、「言葉」を生かす為の配慮とは一体どういうことなのだろうか。日本語には敬語があるが、相手の年齢貴賎に関係なく、言葉を浄化して豊かにしてから伝えることである。日常会話に於いても同じである。
「歩」という語は少し止まると書く。ただ闇雲に歩み続けている訳ではない。言葉も口からすらすらと発する前に、少し止まって、言葉を吟味してみることが肝要なのである。
「言葉が生きていれば小人でも軽々と運べるのだが、言葉が死んでいれば、怪力の巨人でさえ持ち上げることは出来ない」、(ハイネ/ドイツの詩人)
新井雅之
本欄に掲載の記事の無断転載を禁じます。すべての内容は日本国及びアメリカ合衆国の著作権法並びに国際条約により保護されています。
© 2010 Masayuki Arai
キリスト教ブログはこちらです。
0 件のコメント:
コメントを投稿