1. 闘病者昔のロックに涙する
2. お弁当とりどりの笑顔あり
3. 目をつむり見えるのは真実の愛
4. 生家には思い出ずくし万華鏡
5. 食いしん坊グルメ三昧秋の夢
6. 閉じこもり神が与えた休みなり
7. 椿の実手かせ足かせ主の恵み
8. 絶望もイエスの恵み秋晴れに
9. 御言葉を読んでみたいなすらすらと
1. 闘病者昔のロックに涙する
2. お弁当とりどりの笑顔あり
3. 目をつむり見えるのは真実の愛
4. 生家には思い出ずくし万華鏡
5. 食いしん坊グルメ三昧秋の夢
6. 閉じこもり神が与えた休みなり
7. 椿の実手かせ足かせ主の恵み
8. 絶望もイエスの恵み秋晴れに
9. 御言葉を読んでみたいなすらすらと
いよいよ、ホリデーシーズンに突入した。僕はのんびりと静観の構えだ。ジョイと江美子は、毎日忙しくしている。
病気になる以前は、雑事に追われて忙しかった。この季節になると、プレゼントを何個も買わなくてはならない。プレゼントを買う人の、名前を羅列したリストを持って、ああでもない、こうでもないと独りごとを言って、師走の街を奔走しなければならない。それも、また楽しい。
イエス様の誕生日の日に、プレゼントを交換しなければいけない道理が分かりませんが、子供たちの喜ぶ姿が、つい、見たくて、毎年親戚の子供たちにプレゼントを配る。
僕の友達に15歳の男の子いますが、未だにサンタクロースがいると信じて疑いません。今時、この様に純粋な少年は滅多にいません。
最近、つと、正岡子規の事を考えることが多くなりました。NHKのドラマ「坂の上の雲」の影響かも分かりません。子規は死を迎えるまでの約七年間は、結核を患っていました。もう一度『病床六尺』を読み返してみました。子規は病床六尺の世界を、私には広すぎると言いました。
僕が大病をしてみて、子規の胸中を察することができました。僕は強がりばかりを言う。子規は思いのままを伝えている。実に尊敬に値する文学者である。僕は若い頃から正岡子規先生に私淑していたのだ。
結核は喀血することから、ホトトギスは血を吐いて死ぬので、俳号を子規(ホトトギスの別名)と名乗った。
僕も喀血したことがある。救急車で病院に運ばれて、直ちに手術。口から溢れ出る血液は、もう、これで最期かと思いました。
「喀血しイエスを信じホトトギス」
友人と、ある問題で意見が対立した。私はその友と、膝を突き合わせて、じっくりと意見交換をするつもりでいた。けれども残念なことに、その友は弁護士を通して、高飛車な手紙を私に送りつけてきたのだ。
止むを得ないので、私も弁護士を立てて対応すると、今度は私の悪口を世間に吹聴し始めた。挙句の果ては、悪徳弁護士と結託するや、友は事実を捏造して、私の自宅に警察官を二度に亘って急行させるという、実に卑劣な手段に出た。
最初から私の方が正しいと確信していたので、その証拠となる書類と写真を、自宅に乗り込んできた警察官に見せると、彼らは呆れ返って退散した。やがて友の弁護士も、私が所持しているエビデンスを閲覧すると、恥ずかしくなってしまったのか、友の弁護人を辞退した。
法廷では、友は敗訴した。最初に話し合いをしておけば、このような結末には至らなかった。友は傲慢で、やくざとの係わりがあり、麻薬常習者で、檻の中に収監されたことがある。そして現在でも、世間には公表できない、ビジネスのオーナーでもある。
私が友と接触してきたのは、伝道のためであった。何はともあれ、友に立ち直ってもらいたかったからだ。結局、後ろ足で砂をかけられて、無駄な時間と、弁護士、裁判のための諸経費など、約一年の間に合計六万ドルを支払った。まったく、頭に来る。
それでも、私は友を許そうと思っている。自分も神様から許されて、恵みを受けているからだ。
パトリック・マケリゴット著(いのちのことば社)の『夫婦の愛が築く、子どもの未来』を読んだ。本の扉を捲った表紙には、著者の直筆のサインがあるので、家人が講演会の折に買い求めた本であろうかと思う。
マケリゴット牧師は、正しい親子関係の築き方について、日本全国から講演の依頼が絶えない。けれども、マケリゴット牧師が声を大にして語られることは、家庭を祝福させるのは親子関係ではなく、むしろ夫婦関係であるという。
マケリゴット牧師は「エペソ人への手紙」を引用しながら、聖書に書かれている順序を見ても、先ず、夫婦関係を正してから、親子についての記述に触れていると説明している。
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:25~27)
「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」(エペソ6:1)
マケリゴット牧師は、聖書の順序は偶然ではないと説く。即ち、順序さえも教えであると覚えるべきなのだ。
マケリゴット牧師曰く、「まず、夫婦を正してから親子について語る。実際には夫婦も親子も同一と考えるべきです。本当に良い夫婦関係を見ながら育っていく子供は祝福されて、親の誇りとなる可能性が多いのです。」
「キリストが教会を愛したように、夫は妻を愛しなさい」(エペソ5:25)という御言葉は、目で見、耳で聞くような表現が伴ってくる愛であるべきだ。とマケリゴット牧師は力説している。従ってマケリゴット牧師は年に数回、一輪の赤いバラを夫人にプレゼントするらしい。プレゼントをするタイミングは、夫人の誕生日やクリスマスといった特別な日よりも、むしろ普通の日を選んで、一輪のバラの花を夫人に手渡すそうである。
この話を聞いて反論するのは、中年以上の日本人男性である。「あの赤いバラの話だけは水臭いと思いました。日本人はあのようなことがなくとも、仲良くできます。夫婦関係が充実しています」。
この意見に対してマケリゴット牧師は、「女性の心を全く知らない鈍感な人」だと思ったらしい。何故ならば「しなくてもいい。しかし、しなくていいからこそ、してくれるときには嬉しさが倍増する」。これが世界共通の女心であると、マケリゴット牧師は弁明している。
私は、愛とは表現が伴う行為であると強調しているマケリゴット牧師の言葉が好きだ。何故ならば、神が罪人たる人間に対して、一方的に恩寵を与える自己犠牲的な行為は、磔刑と復活という感極まる表現行為を抜きにしては語れないからである。アガペー(神の愛)は、このような大胆な表現を通して、真実の愛を伝えようとしたのではないか。
私の好きな慣用句に「愛に愛持つ」というのがある。即ち、愛敬(あいきょう)たっぷりに振舞う行為のことであるが、女性や子供たちが、全身でかわいらしくにこやかに表現すると、愛に愛持つほど愛くるしいという意味である。
一昔前に、私は或る活字媒体に、「父親の一言によって日本は変わる」といった内容のエッセイを発表したことがある。厳密には一家の大黒柱である父親の一変によって、夫婦関係が、はたまた親子関係が向上すると説いた。そのためには父親の勇気と忍耐が不可欠である。家庭の事情は千差万別であるから、一概にそうとも言いきれない。だが、その勇気と忍耐を継続させたならば、必ずや家庭の環境が好転するに違いないと信じたい。
父親の一言とは、照れやプライド、そして強情な思いをかなぐりすてて、細君や子供たちに「おはよう」から「おやすみ」まで積極的に挨拶の声をかける。何かしてもらったら相手の目を見つめながら「ありがとう」の一言を発することである。
日本の男性は愛情表現が苦手である。夫が妻に面と向かって、「愛しているよ」と、平然として囁ける者は少ない。「いまさら。キザだ。口に出さずとも解り合っている」。などの意見が聞こえてきそうだ。
けれども知って頂きたい。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。(ヨハネ3:16)
この、神の慈愛は、一人子を手放してまでもこの世を愛されて、永遠の命というこの上ないプレゼントを持って、罪びとたちを救恤するためであった。この至上の愛に始まり、キリスト再臨の天啓まで、目で見、耳で聞くような、豪胆な表現が伴ってくる究極の愛なのである。
従って夫たる者よ。主にみならって、雄々しく豪胆であれ! 妻や子供たちに、そして隣人に対しても、目に見えて耳に聞こえるような愛の表示を、大胆に振舞おうではないか。
愛の伝達を十分に活用させるためには、他者に対して、愛を伝えるべく表現が伴う行為でなければならない。
本日、病院のスピーチ・セラピストの所に行って来た。第一部は、食べづらい、飲み込みにくさを矯正する口と舌のエクササイズ。
第二部は文字通り、声が滑らかに喋れるように訓練する。日本人の先生であれば、上手にやっても中々褒めてくれない。ここはアメリカ、グッドジョブの連発。
毎日二回以上、口と舌を動かすエクササイズをやってくださいと、最後にドクターに言われました。
心理学の本を読むと、人間は周囲の環境から影響を受けて行動に出る。と要約されてあった。
例えば若い時分に結婚をして、子育てに四苦八苦するよりも、晩婚である方が、生まれてくる子供にとって、より良い生活環境が望めるという。
その理由は、経済的にもゆとりが出てきた、人生経験を積んだ両親の方が思惟的であるからだ。
このように人格は、DNAから受け継がれて形成されるものではなく、四囲の外界によって確立されていくらしい。「三つ子の魂百まで」というが、乳幼児期に体得した習慣は、終生忘れることはないのだろう。
幼いうちに習わしておきたいことの一つに、読書の習慣がある。読み聞かせと、詩や物語などの銘記は極めて肝要であると思う。ストーリーや活字を追うことだけに専念せずに、文脈の間隙をじっくりと読ませるように心がけることだ。これこそが情操教育なのである。
先ごろ、トルストイの童話集を買い求めたが、解説のところを読んでみて、些かがっかりとさせられた。児童文学を研究している大学教授が、トルストイの文学は人間愛に基づく人道主義に貫かれている。と語っていたからである。
人間愛に基づく文学作品をひと言で表現する場合に、人道主義が貫かれているというのは、あまりにも概念的で表象的ではない。この場合は少なくとも平等な相愛、もしくは博愛主義が望ましい。
少なくともと前置きをしているのは、例えば汎愛主義であると解説書に明記されていたとしても、完璧な解説には至らないからである。
『人は何によって生きるか』、『イワンのばか』、『パンのかけらと小悪魔』など、トルストイの一連の文芸作品には、キリストの愛が色濃く貫かれているのだ。と断言しなければ、的確な評釈として認めるわけにはいかない。
毎月、第四土曜日は『こどもの本の日』。昨今の絵本や童話を閲覧していると、不完全な文意に度々遭遇する。困ったものだ。
昔から「氏より育ち」と言われているのは、人間は氏素性(うじすじょう)よりも教育が大切であり、血統よりも境遇が人格を形成するからである。従って八歳ぐらいまでの情操教育は枢要な位置を占めている。
幼い頃に身につけた習慣は、「雀百まで踊り忘れず」、「三つ子の魂百までも」、「源清ければ流れ清し」、などの諺でも表現されているように、老年になっても退歩することがない。乳幼児期に規則正しい習慣を体得していると子供と、そうでない子供とでは、小学校に入学する頃から、その違いが歴然として表れてくる。
幼児期に机の前に座る習慣を怠り、絵本の読み聞かせや読書(音読)、簡単な算数、そして創造力の開発と自主性、更には自己表現の能力を培わない懶惰(らんだ)な生活を続けていると、取り返しのつかないことになってしまう。
よく耳にする話しだが、小学校高学年や中学生になってから、「うちの子供は全く勉強してくれません。どうすればよいでしょうか」と、悩みを打ち明ける父兄を見受けることがある。これらの子弟は、幼児期に机の前に座るという習慣を学ばされないまま育って来たに違いない。
今、教育問題について、熱心に取り組んでいる研究者の殆どが、同一問題で警鐘を乱打している。それは小学生から学ぶ英語の学習だ。文部科学省では国語の授業を削って、英語の授業を増やすことを容認している。
米国には数多くの日本人の子弟が、英語学校を始めとして専門学校や大学に留学している。また、日本国内に於いては、学力の低下が叫ばれて久しい。留学生は英語力を培うことを第一の目標に掲げているのだが、それ以前に、彼らの日本語(国語)能力は惨憺たる物である。
母国語である国語を疎かにしておいて、外国語(英語)を修得しようとする心構えは、実に愚かな話しである。その点に於いて、中国人やフランス人は母国語を誇りに思っている。その美しい言語と語勢で、母親が子供に読み聞かせをしている。何と素晴らしいことだろう。
幼児教育に於いて最も肝要なことは、読み聞かせと音読、そして簡単な計算である。特に音読と計算は、老齢にいたるまで継続することによって、脳の前頭葉を活性化してくれるという。近年、痴呆症を予防するために、或は緩和させるための治療方法としても脚光を浴びている。
読み聞かせと音読、そして簡単な算数を毎日欠かさずに行うことによって、幼児の能力開発に寄与することは、世界的に著名な研究者や教育関係者の間でも、今や常識となっている。従って、小学校や中学校で実践している現代の学習方法は、明らかに誤謬を極めていることになる。
公文(トーレンス)の西尾誠一郎先生の講演で知り得たことだが、音読に最適な言語は漢字であり、漢字にひらがな混じった文(日本語)は、脳を刺激する上で世界最上といわれている。これらのことを証明する一つとして、脳障害児の治療と幼児の才能開発で世界的に権威のある、グレン・ドーマン博士が、世界中から集まってくる脳障害児に対して、漢字を用いた治療方法をいち早く取り入れている。
私は、音読の大切さを常々理解していたが、絵本にしろ童話にしろ、闇雲に子供に本を与えるのではなく、先ず親が十分に書籍の内容を吟味してから、良書のみを子供に与えるように心掛けてほしい。この図書の選択は非常に重要なことであるので、怠らないで慎重に取り組んでいただきたい。
一例を挙げると、同じタイトルの絵本でも、表現が軽率であるものや、て・に・お・はなど、文章が不適切な場合がある。更に翻訳された童話になると、これらの不備は数多であるからだ。
音読をするにあたって、絵本も童話も小説も、散文が中心となっている。私が声を大にして述べたいことは、韻文の音読である。日本には短歌や俳句という素晴らしい定型詩が存在する。韻文は子供の感性と創造力を育み、集中力を高めてくれるのである。
私には、五歳の娘が一人いる。二歳から始めた英才教室では、聖愛幼稚園の藤村俊次園長のご指導により、ひらがなからではなく、漢字を銘記することから学習が始まった。更に諺、俳句、百人一首を記銘すると、保持して再生する訓練を怠らない。
当初は、大人ですら難解な百人一首を、幼児が暗誦できるものかと不安であった。けれども、英才教室に参加して四年経過したのであるが、娘は諺と小林一茶や松尾芭蕉などの俳句を、二百十句丸暗記してしまった。そして百人一首は、ようやく半分(五十)まで暗誦を終了させるにいたった。これらの学習は英才教室の一部であり、定型詩の音読は銘記することが目的ではない。あくまでも記憶の回路を幼児の脳に構築するための研鑽である。
ところで老若男女が音読するにあたって、世界最高の図書をご存知だろうか、それは言うまでもなく、漢字とかなのまじった日本語の『聖書』である。聖書には詩と散文が織り成されている。しかも法律の書、歴史の書、預言書、手紙の数々、そして福音書の集大成だ。
神様は日本語という格別な計らいを持って、私たちを愛して、愛して、愛して…… これでもかと愛してくださっている。