映画『未知との遭遇』以来、若者の間で「遭遇」が流行った。
好きな人と遭遇する。先生と遭遇した。美味しいレストランと遭遇する。どれも間違えだ。
嫌なものに偶然出会った時に、遭遇を使う。
山中で熊と遭遇する。事件現場に遭遇する。
映画『未知との遭遇』以来、若者の間で「遭遇」が流行った。
好きな人と遭遇する。先生と遭遇した。美味しいレストランと遭遇する。どれも間違えだ。
嫌なものに偶然出会った時に、遭遇を使う。
山中で熊と遭遇する。事件現場に遭遇する。
三毛猫泣太郎(みけねこなくたろう)
一二三山四五六(ひふみやましごろく)
陸蒸気ツバメ(おかじょうきつばめ)
自動車早太郎(じどうしゃはやたろう)
凸凹太吉(でこぼこたきち)
ヒーロー市松(ひーろーいちまつ)
黒猫白吉(くろねこしろきち)
※ この中に実際には存在しない四股名が一つある。どれでしょう。
答え……陸蒸気ツバメ
以前、NHKでは「太古の昔」の表現を使っていた。これは重複表現である。太古と言えば大昔、最近NHKでは「太古の昔」は使っていないようだ。
ごく最近見た『Begin Japanology』で、「古の昔」なる表現が使われていた。古(いにしえ)と言えば昔、NHKはまたもや重複表現を使っていた。
吉田兼好が著した鎌倉時代の随筆、『徒然草』の第117段には、友とするにはふさわしくないものが7つあると説かれている。
その中の一つに「病なく身強き人」を挙げているが、おおよそ兼好法師は、健康な者には、病弱の者に対する同情の念が欠けているとでも言いたかったのであろう。
ヒルティの『幸福論』第3巻(正木 正訳)に、「病気」に関する記述がある。
「幸福は健康がなければ生じないというのであれば、悲しいことであろう。だがそれは真実ではない。不幸な病人があると同様に、幸福な病人もあるのである。病気と幸福は絶対的に対立させるものではない」
「病気もまた幸福であり得るのであって、健康な日には起らなかったものが、一段と高い人生観への浄化剤ともなり、血路ともなることが出来るのである」
わたしは、聖者と仰がれたヒルティの、この味わい深い一文が好きだ。また、近代フランスの人道主義者で作家のロマン・ロランは、病気はためになることが多いと喝破している。なぜならば、肉体を痛めつけることによって、魂を解放して浄化するからだ。一度も病気をしたことのない者は、十分に自己を知っているとはいえない。
わたしは傷を持っている
でも、その傷のところから
あなたのやさしさがしみてくる
(星野富弘)
不慮の事故から此の方、首から下の自由を奪われてしまった星野さんは、この試練を通して、真の慈しみと出会ったのである。
僕が日本にいた頃、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のテレビ・コマーシャルは有名だった。
上から読んでも、下から読んでも長い言葉はあるのかなぁ。「新幹線沿線監視」と言うのはどうだろう。「しんかんせんえんせんかんし」。
* デンバーにお住まいのT・Aさんからのご質問です。
産経電子新聞の『俳句と短歌』の欄に掲載されていた、黛まどかさんのエッセイ『待宵の月』を読まれたT・Aさんは、「 ・・・・・・ やや欠けた月を尊ぶ美意識は、日本人独自のもののようだ」という一文に疑念を抱いておられます。
T・Aさんは、月を尊ぶ美意識は、世界の人々に共通するものであるとおっしゃるのです。
日本の絵画や定型詩、あるいは美意識的文化背景には、「花鳥風月」で表現されるわびさびが漂っています。
歳時記を見ますと、「月」に関する季語はたくさんありますが、「星」は流星ぐらいです。また『平家物語』の月の描写は有名ですが、古から日本人は四季折々の「月」を定型詩や絵画の題材として選び、欠けた月やおぼろ月を愛でるのです。
比して泰西では、天文学に優れたカルデア人が星座図を考案して以来、やがて星座図はギリシアへと伝わって、神話や伝説に結びつきました。これらは、西洋占星術の原型でもあります。
ジョセフ・コンラッドというイギリスの作家は、「月」は冷徹で恐ろしいミステリーだと言い。詩人のサンドバーグは、「月」は孤独な人間の唯一の友であると表白するのが精々です。彼らには、どうも「月」を尊ぶ習慣はなかったようです。
先日、来米したばかりの知己から、同行の女性を紹介された。名前はミキミキ。
「愛称ですか」と、尋ねると、山村美樹さんが三木さんと結婚して、フルネームがミキミキになったと説明してくれた。
阪神タイガースの監督は真弓だが、真由美さんが真弓さんと結婚したらマユミマユミ。美和さんが三輪さんと結婚したらミワミワ、真紀さんが牧さんと結婚したらマキマキだ。
アメリカで珍しい性の日本人女性と知り合ったことがある。
「で、あなたのお名前は」
「材木屋です」
「お父さんの職業ではなく」
「ですから、材木屋です」
なんと、彼女の名字は材木屋だった。
イタリア人の男性の名前にヨシコというのがある。ビバリー・ヒルズのロデオ・ドライブに、少しばかりくだけた貴金属店がある。ここの店長の名前がイタリア出身のヨシコさん。日本人観光客が店の中へ入っていくと、「わたしの名前はヨシコです」と、日本語で話しかけてくる。
観光客が笑い出したところで、店長は透かさず名刺を差し出して、自分の名前がヨシコであることを証明する。そこでまた観光客は笑い出す。てなぐあいである。
では、ここで大変珍しい日本人の性の一部を紹介する。
一番合戦(いちまかせ)、百目鬼(どめき)、仙人(せんにん)
音琴(ねごと)、目次(めつぎ)、花子(はなこ)
人首(ひとかべ)、宇宙(うちゅう)、九(いちじく)
大(だい)と大(おお)の読み方については、原則として「大」のあとに音読みの語句「漢語」がくると(だい)、訓読みの語句「和語」であると(おお)と読むのが一般的。
NHKでは「大地震」を(おおじしん)と読ませているので、各民放も右に倣って「おおじしん」と読んでいる。NHKの『ことばのハンドブック』によると「大地震」の場合は正しくは「おおじしん」であるとの明記がある。
ここで日本放送協会に質問がある。「大震災」はだいしんさいと読み、おおしんさいとは読まないので煩わしい。NHKはよほどじしんがあるかと見えて頑なに「おおじしん」と読みつづけている。
「だいじしん」か「おおじしん」か、この揺れている語句の読み方については、読者の判断にゆだねることにしたい。
高校二年生の時、日頃口数の少ない現代国語の先生が、授業中、黒板に大きな字で石川豚木(ぶたぼく)と書き損じたので大爆笑となった。
文学にあまり関心を示さない当世の若い人たちの中には、島崎藤村や永井荷風のことを「しまざきふじむら」、「ながいにふう」と読む者がいる。
ラジオのアナウンサーが名前を読み間違えて以来、藤本義一(よしかず)が(ぎいち)になり、松本清張(きよはる)が(せいちょう)と呼ばれるようになった。有名になると水上 勉(べん)、川端康成(こうせい)のように、有識読みといって音読みされることがある。
長谷川辰之助は子供の頃に実父から「くたばってしめえ!」とよく叱責されたので、二葉亭四迷(ふたばていしめい)とペンネームをつけたことは有名である。
近所の猫が窓から、ふらっと姿をあらわす度に「おー、ヘンリーじゃないか」。習慣のように口から出る猫の名前が、そのままペンネームになったのが、O・ヘンリー。
社会主義者の雄レーニンはなんと150にも及ぶペンネームを使い分けていた。
言葉の乱れが指摘されて久しいが、その起因の一つに、私たちは日頃から、ささやかな心づくしを怠っているのではないだろうか。
「丸い玉子も切りようで四角、ものも言いようで角が立つ」これは都々逸の一節である。ドイツの詩人ハイネは語っている。「言葉が生きていれば小人でも軽々と運べるのだが、言葉が死んでいれば、どんな巨人だってまともに起すこともできない」
言葉ほど人の心を傷つけ、反対に愛情を育むものはない。英国の詩人ロバート・ブラウニング(1812~1889)には病弱の妻がいた。何一つとして妻らしいことを夫にやってあげられない妻のエリザベスは、夫に対して終始申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
ロバートはそんな妻の思いを察して、「君は、まるで天使だ」と言って励ましつづけた。エリザベスは夫の優しい言葉に感謝するものの、所詮、それは慰めの言葉に過ぎないのだと感じていた。
けれども、ロバートは「君は天使だね」と言う囁きを日々忘れなかった。晩年、エリザベスは姉妹に手紙を出している。その一行には「私は、本当に天使になったように思えてきました」と綴られている。
言葉づかいや礼儀の基本は、思い遣りにあると思う。他人に対してだけ礼儀正しくするのではなく、家庭や夫婦の間に於いても、慈しみを怠らないように心掛けていきたいものだ。
担任の先生から落ちこぼれの烙印を押されたA君は、落胆して家路についた。家に帰ってから母親にそのことを話すと、お母さんはA君の話に耳を傾けて、静かに聴き入った。そしてお母さんはA君に向かって言った。「息子よ、おまえはわが家の天才だ!」
あの発明王エジソンも、不登校の落ちこぼれだった。そして、後に天才と称賛されるようになった。以来、母親は、A君のことを「わが家の天才」と呼んで励ましつづけた。
日米のサービス業務を比較すると、サービスを施す側とサービスを受ける者との立場が、ほぼ対等であるのがアメリカであるが、お金を落としてくれる客に対して、まるで奴隷のようにこき使われているのが日本である。
日本の一流ホテルに勤めて二十五年になる知人が、米国での駐在期間を終えて昨年の暮れに帰国したが、歓送会の席で、このようなことを私にこぼしていた。
「お客様は神様です」と言って、一世を風靡したのは歌手の三波春夫さんだが、ファンにとって、これ以上の殺し文句は無い。だが、この流行語は、客の我が儘を益々助長させることになってしまった。
客に向かって一体その態度(口の利き方)は何だ。とはよく耳にする言葉である。言い換えれば、恐れ多くも神様に向かって何たることだ。ということになる。
お金をたくさん使ってくれる神様の機嫌を損なわないように、日本の商人(あきんど)は手揉みをしながら、腰を低くして、接客に従事するのである。
また、その道を究めた雲の上の人を、○○の神様と呼んで尊敬することがある。
経営の神様・・・松下幸之助
小説の神様・・・志賀直哉
憲政の神様・・・尾崎行雄
野球の神様・・・川上哲治
金儲けの神様・・・邱 永漢
特撮の神様・・・円谷英二
モダン・ジャズの神様・・・チャーリー・パーカー
フラメンコ・ギターの神様・・・パコ・デ・ルシア
サッカーの神様・・・ペレ
いろはかるたには『江戸かるた』と『上方かるた』の二種類がある。
『江戸かるた』の「い」は、「犬も歩けば棒にあたる」
『上方かるた』の「い」は、「一寸先は暗(やみ)」
『江戸かるた』の「い」の図柄は、棒に当たった犬が痛々しい顔をして、
キャンと鳴いている。
「犬も歩けば棒に当たる」とは、でしゃばるから禍に遭う。または反対の、
出歩いていて意外な幸運に出くわすこともあるの意味。その時の状況に応じて
使い分けていたが、近年では積極的に行動すれば道は開ける。と言った
意味で使われることが多い。
クイズ
(その1)
馬の耳に念仏、猫に小判、猫に石仏、牛に経文、豚に真珠、
これらの意味は「値打ちの解らないこと」である。
次の四角の中に文字を入れて俚諺を作りなさい。 犬に□□
(その2)
柴イヌと読むのか、柴ケンと読むべきか? 犬種によって呼び方が違う。
イヌとケンの区別をしなさい。
柴犬、土佐犬、秋田犬、北海道犬、紀州犬、樺太(カラフト)犬
【答え】
(その1)犬に論語
(その2)イヌ・・・柴犬、秋田犬、土佐犬
ケン・・・北海道犬、紀州犬、樺太犬
* 例外もあるが、基準として日本産犬種は「イヌ」、外国産犬種は「ケン」
最近の子供たちのジャンケンのやり方を見ていると、まず、「最初はグー」で呼吸を斉えておいてから、ジャンケンポンが始まる。
関西では「ジャンケン」のことを、「インジャン」といったりする。このインジャンなるものは言うまでもなく、勝ち負けを決めることにあるのだが、本来は結果よりも、その過程を愉しむことにあったのだ。
牽制(けんせい)、後出し、待ったをかける、両腕をねじって両手の穴の隙間を覗くこと等、これらの駆引きを通して、互いの心の触れ合いが深まっていくのである。
今は亡き上方漫才界の大御所、中田ダイマル、ラケットの漫才のネタに、ジャンケンを取り扱っているのがある。相手がチョキを出して自分がパーの場合でも、「ぼくの勝ちや!」と、開き直る。理由を聞けば「ぼくのパーは鉄板だ」という。
ジャンケンは遊びを始める前の鬼決めや、先攻か後攻かを決めるための一種の籤(くじ)であると同時に、ジャンケンそのものが既に遊びの一部となっている。
私は「最初はグー」で始まる、この官僚主義的ジャンケンの習慣に嫌悪を催すのだ。ジャンケンを始める間際に、「最初はグー」でタイミングを斉えておくと、確かに後出しがなくなる。けれども、そこには人間臭さも、人生の醍醐味も、そして何よりも遊び心が消滅してしまっている。
「最初はグー」以前から流行り出していたジャンケンで、「あっち向いてホイ!」というのがある。あるテレビ局のディレクターの話しによると、これを最初にやりだしたのが萩本欣一さんだそうである。
じつは、この「ジャンケンホイ、あっちゃ向いてホイ!」なるネタは、33年ほど前に大阪のテレビ局で始まった『脱線スカタン選手権』(吉本興業)という番組の中でのゲームが発端である。
いずれにしても、たかがジャンケンではないか、と思いきや、されどジャンケンである。「最初はグー」だなんて拍子抜けしてしまうが、つい思い余って、「グンカングンカン、はーれつ!」と叫んでしまいそうである。
合格発表は早春の風物詩である。毎年その時節を迎えると「掲示板の前では、一喜一憂する受験生の姿が見られました」と、各局のアナウンサーはその模様を伝える。
そもそも「一喜一憂」、「悲喜こもごも」とは、情況の変化につれて、一人の人間の心境を表現するものであり、群集のそれぞれの「喜」や「憂」を表現するものではない。
例えば、「A君は受験に合格したが、祖父の訃報の知らせに一喜一憂(悲喜こもごも)の1日であった」というように用いるのが正しい。
このように言葉が間違えられて用いられていると、やがてその用語が正しくなってしまう場合がある。スポーツ観戦をしていて、実況担当のアナウンサーが「この試合は〇〇選手の独壇場(どくだんじょう)です」と解説することがある。
正しくは独擅場(どくせんじょう)と言うべきである。これは、独擅場の「擅」(せん)を「壇」(だん)と誤読したためにできた語である。現在では、読み間違って誕生した「独壇場」の方を、新聞や各放送局が採用している。
「この山は女人禁制(にょにんきんせい)です」と説明しているテレビのアナウンサーがいた。男子の場合は男子禁制(だんしきんせい)と読むが、女人とくれば禁制(きんぜい)と読むのが正しい。
山巓にある伽藍の中が映されると、「ここで礼拝(れいはい)をします」と、アナウンサーは説明した。
礼拝(れいはい)と読むのは、キリスト教のことであって、仏教では礼拝(らいはい)を用いている。従って仏教では、「明日に礼拝(らいはい)夕べに感謝」と読むのが正しい。
【東】 【西】
○マル、×バツ ○マル、×ペケ
じゃんけん-ぽん いんじゃん-ほい
かみさん よめはん
粋(いき) 粋(すい)
ものもらい 目ばちこ
目やに 目くそ
おにぎり おむすび
会席 懐石
三笠饅頭 どら焼き
鰻の蒲焼 まむし
肉まん 豚まん
アイスコーヒー コールコーヒー(レイコー)
駐車場 モータープール
捨てる ほかす
パーマをかける パーマをあてる
だるまさんが、ころんだ 坊(ぼん)さんが、へをこいた
ごきぶり 油虫
ハジキ チャカ
私がジャズに夢中になりだしたのは、十七歳の頃からである。最初に購入したLPは『マイルス・デヴィス・アット・ブラック・ホーク』。以来、梅田(大阪)のジャズ喫茶『ファンキー』や、戎橋にあった『ファイブ・スポット』へ足繁く通った。
その後、ジャズを聴くだけでは飽き足らずに、自動車教習所の授業料をキャンセルして、中古のクラリネットを購入した。独学で何とか吹けるようになるまで上達したので、やがてテナー・サックスに持ち替えた。その折に、ヤマハの顧問でアルト・サックス奏者の後藤高行氏と出会った。
私は神戸の『ニューポート・ホテル』と八幡筋(大阪)の『オーシャン・クラブ』でサックスの腕を磨いた。アメリカに渡ってプロのバリトン・サックス奏者になりと思った時期があったが、プロになれるような才覚がないことを承知していたので、すんなりと諦めた。
さて、ニューオーリンズで始まったJAZZには、元々からジャズという呼び名がなかった。1920年頃、シカゴのナイト・クラブでウイスキーに酔った客が、「Jass it up」とステージのバンドに向けて声援を送ったのがきっかけとされている。
ジャズ界には独自の隠語があるので、少しばかり紹介する。
楽器・・・ ax、axe(アクス)、サックスのみをアクスともいう。ピアノ・・・ box、もしくは鍵が88あるのでエイティ・エイト、またはエボニーズ・アンド・アイボリーズ(黒炭と象牙)、
ヴィブラフォーン・・・ bells(ベルズ)、サックス・・・ pipe(パイプ)、フルート・・・ whifler(ウィッファー)、ドラムス・・・ hides(ハイズ)・skin(スキン)・booms(ブームス)
私にはジャズ・プレイヤーへの夢は果たせなかったが、西海岸で活躍している一流のジャズ・ミュージシャンたちと一緒に、詩の朗読会を催すことがある。
日頃、私たちは間違いだと気づかずに、多くの言葉を使っている。では、次に挙げた慣用句を正しく直してみましょう。
1.娘も十八、番茶も出花
2.鼻にもかけない
3.口先三寸
4.口をにごす
5.二の舞を踏む
6.耳ざはりのよい
7.身を惜しまず
8.腹が煮えくり返る
9.歯にころもをきせない
10.舌の先が乾かぬうち
11.的を得た質問
12.貧すれば通ず
【回答】 さて、あなたは何問正解しましたか。
1. 鬼も十八、番茶も出花
2. 歯牙(しが)にもかけない
3. 舌先三寸
4. お茶をにごす(言葉をにごす)
5. 二の舞を演ずる(二の足を踏む)
6. 肌ざわりがよい
7. 骨身を惜しまず
8. 腸(はらわた)が煮えくり返る
9. 歯に衣(きぬ)を着せない
10.舌の根の乾かぬうち
11.的を射た質問
12.窮すれば通ず
元横綱の輪島が、アメリカ巡業の折、トイレの場所を尋ねるのに一苦労したそうだ。「W.C.」と言っても、まったく通じなかったので、横綱は発音が悪いせいだと思い込み、紙に「W.C.」と書いて見せたが、みんな首を傾げるばかりだった。
W.C.(Water Closet)は英語だが、アメリカやイギリスのトイレの標示はlavatoryもしくはrest roomが一般的である。
因みに日本の学生たちの間で使われている 「W.C.」の隠語は、ワセダ・カレッジとホワイト・クリスマス。
かつてパリのチュイルリー庭園を散策していた際に、公衆トイレの壁に大きな字で「W.C.」と標示がされてあった。 本来は英語である 「W.C.」 が、フランスではトイレの標示に使われている。果たして近隣国のベルギー、スイス、スペイン等でも、トイレの標示は「W.C.」なのだろうか?
その昔、フランスにはトイレが無かった。ベルサイユ宮殿も論外ではない。宮殿で、夜毎に催される華麗な舞踏会では、正装した紳士淑女たちが、携帯電話ならぬ携帯便器を持参していた。
携帯便器に行儀よく用を足した後は、随行の者が排泄物を宮殿の中庭に捨てたので、「ベルサイユのバラ」は肥料に事欠くことなく、すくすくと育った。だが、回廊から中庭の花壇を観賞する際に、そよ風が運んでくるのは、高貴なローズの香りではなく、強烈な田舎の香水の香りが漂って来た。
余談をもう一つ、パリには『ロダン美術館』がある。あの有名な「考える人」の格好は、どう見ても便座に腰をかけて用を足している姿に見える。それでは、人間はどうして狭いトイレの中で、よく考え事をするのだろうか。その答えは、トイレは「思考」(しっこ)する所であり「空想」(くそ)する場所であるからだ!?
新井雅之
勧 酒
勧君金届巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
于 武陵(う・ぶりょう)/ 井伏鱒二訳
さらハあけましょ此盃て
てふとお請よ御辞儀ハ無用
花か咲ても雨風にちる
人の別れも此こゝろ
コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
サヨナラダケガ人生ダ
井伏鱒二が林芙美子にすすめられて尾道へ行った折、やはり林芙美子にすすめられて、一緒に三ノ庄まで足を伸ばした。
島を離れる時、彼らを見送る人たちが十人ほど岸壁に来て、船の出発の汽笛が鳴ると「さようなら、さようなら」と手を振った。
林も頻りに手を振っていたが、いきなり船室に駆け込んで、井伏に「人生はさよならだけね」と言うと泣き伏した。
後に井伏は「人生足別離」を「サヨナラダケガ人生ダ」と和訳した。林芙美子の言葉(せりふ)を意識していたのである。
新井雅之